画家としての出発とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 画家としての出発の意味・解説 

画家としての出発(1860年代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 15:22 UTC 版)

ポール・セザンヌ」の記事における「画家としての出発(1860年代)」の解説

セザンヌは、ゾラ勧めもあって、大学中退し、絵の勉強をするために1861年4月パリ出たルーヴル美術館ベラスケスカラヴァッジオの絵に感銘受けた。しかし、官立美術学校エコール・デ・ボザール)への入学断られたため、画塾アカデミー・シュイス通った。ここで、カミーユ・ピサロアルマン・ギヨマン出会った。朝はアカデミー・シュイス通い午後ルーヴル美術館か、エクス出身画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユ(フランス語版)のアトリエデッサンをしていたという。そのほかゾラや、同じくエクス出身画家アシル・アンプレール交友持ったセザンヌは、アカデミー・シュイスで、田舎者らしい粗野な振る舞いや、仕事への集中ぶりで、周囲笑いものになっており、ピサロによれば、「美術学校から来た無能どもがこぞってセザンヌ裸体素描をこけにしていた」という。 同年9月には、成功の夢が遠いのを感じゾラ引き留めにもかかわらずエクス帰ってしまった。エクスでは、父の銀行働きながら、美術学校通った後年セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである。銀行勤めはうまく行かず、翌1862年秋、再びパリ訪れアカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワール出会ったようである。また、エクス出身彫刻家終生友人となったフィリップ・ソラーリ(英語版)とも知り合い共同生活送ったロマン主義ウジェーヌ・ドラクロワ写実主義ギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響受けた。この時期1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。 1863年ナポレオン3世開いた落選展に、マネ『草上の昼食』出品してスキャンダル巻き起こしセザンヌもこれを見た思われるが、セザンヌ自身出品した記録はない。1865年には、サロン・ド・パリ応募したが、落選した応募の時、ピサロに、「学士院連中の顔を怒り絶望真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている。ゾラは、同年12月セザンヌ捧げる小説クロード告白』を出版し当局検閲遭った。このことを機にゾラは『レヴェヌマン』紙に転職した1866年サロンには、友人アントニー・ヴァラブレーグの肖像画提出したが、審査員シャルル=フランソワ・ドービニーの熱心な擁護にもかかわらず再度落選したセザンヌは、美術総監エミリアン・ド・ニューウェルケルク伯爵に、これに抗議し落選展開催求め手紙送ったゾラは、『レヴェヌマン』紙に連載したサロン評ではセザンヌについて一言触れていないが、同年5月には、サロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文セザンヌ触れるなど、ゾラとの強い友情続いていた。セザンヌは、同年5月から8月まで、セーヌ川沿いの小村ベンヌクール(フランス語版)で制作活動行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌ仕事をしている。彼はその性格赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼に大い希望持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年落選するだろうとも僕ら踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布作品をやろうと目論んでいる。美術批評家としての地位確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家たむろするカフェ・ゲルボワ常連となり、セザンヌもこれに加わった。もっとも、セザンヌは、都会機知に富む会話の場にはなじめなかったようである。 1867年サロンにも落選したシスレーバジールピサロルノワールといった仲間たち軒並み同様の目に遭った1868年サロンでは、審査員ドービニー尽力により、マネピサロドガモネルノワールシスレーベルト・モリゾといった仲間たち入選したが、セザンヌだけは再び落選であったカフェ・ゲルボワメンバー中でもサロン対す考えは様々であったが、セザンヌは、当たり障りのない作品送って入選目指すではなく、最も攻撃的な作品送って自分たちを拒否している審査委員会の方が悪いこと明らかにすべきだとの考え持ち主であった1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(英語版)(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた。父からの月200フラン仕送り2人の生活を支えなければならず、経済的に苦しくなった。 1870年サロンには、画家仲間アシル・アンプレール描いた肖像画応募し、またも落選したこの年7月19日普仏戦争勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海面したエスタック用意してくれた家にフィケとともに移り兵役逃れた。 『「レヴェヌマン」紙を読む画家の父』1866年、198.5 × 119.3 cmナショナル・ギャラリー (ワシントン)。 『略奪1867年頃、90.5 × 117 cmフィッツウィリアム美術館。 『アシル・アンプレール肖像1868年頃、200 × 120 cmオルセー美術館。 『ピアノを弾く若い娘』(『タンホイザー序曲』)1869-70年頃57 × 92 cmエルミタージュ美術館。 『饗宴1870年頃、130 × 81 cm個人コレクション『草上の昼食』1870-71年頃60 × 81 cm個人コレクション。 『聖アントワーヌの誘惑1870年頃。油彩キャンバス52 × 73 cmビュールレ・コレクション。 『田園詩1870年頃、65 × 81 cmオルセー美術館

※この「画家としての出発(1860年代)」の解説は、「ポール・セザンヌ」の解説の一部です。
「画家としての出発(1860年代)」を含む「ポール・セザンヌ」の記事については、「ポール・セザンヌ」の概要を参照ください。


画家としての出発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 10:28 UTC 版)

モーリス・ユトリロ」の記事における「画家としての出発」の解説

病院をでたユトリロこの頃、モンマニー周辺モンマルトルで絵を描き始め自分進路絵画定めたヴァラドン息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロ独学で絵を描いた当時技法小さなボードの上ピサロシスレー用いた印象派独特の点描技法厚く絵具を置くものだったデッサンについてはまだ、特別な構図追求しなかった。この頃作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロ2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する

※この「画家としての出発」の解説は、「モーリス・ユトリロ」の解説の一部です。
「画家としての出発」を含む「モーリス・ユトリロ」の記事については、「モーリス・ユトリロ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「画家としての出発」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「画家としての出発」の関連用語

画家としての出発のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



画家としての出発のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのポール・セザンヌ (改訂履歴)、モーリス・ユトリロ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS