画家としての出発(1860年代)
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「ポール・セザンヌ」の記事における「画家としての出発(1860年代)」の解説
セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために1861年4月にパリに出た。ルーヴル美術館でベラスケスやカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、官立の美術学校(エコール・デ・ボザール)への入学が断られたため、画塾アカデミー・シュイスに通った。ここで、カミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンと出会った。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユ(フランス語版)のアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家アシル・アンプレールと交友を持った。セザンヌは、アカデミー・シュイスで、田舎者らしい粗野な振る舞いや、仕事への集中ぶりで、周囲の笑いものになっており、ピサロによれば、「美術学校から来た無能どもがこぞってセザンヌの裸体素描をこけにしていた」という。 同年9月には、成功の夢が遠いのを感じ、ゾラの引き留めにもかかわらず、エクスに帰ってしまった。エクスでは、父の銀行で働きながら、美術学校に通った。後年、セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである。銀行勤めはうまく行かず、翌1862年秋、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールと出会ったようである。また、エクス出身の彫刻家で終生の友人となったフィリップ・ソラーリ(英語版)とも知り合い、共同生活を送った。ロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義のギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けた。この時期(1860年代)の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。 1863年、ナポレオン3世が開いた落選展に、マネが『草上の昼食』を出品してスキャンダルを巻き起こし、セザンヌもこれを見たと思われるが、セザンヌ自身が出品した記録はない。1865年には、サロン・ド・パリに応募したが、落選した。応募の時、ピサロに、「学士院の連中の顔を怒りと絶望で真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている。ゾラは、同年12月、セザンヌに捧げる小説『クロードの告白』を出版し、当局の検閲に遭った。このことを機に、ゾラは『レヴェヌマン』紙に転職した。 1866年のサロンには、友人アントニー・ヴァラブレーグの肖像画を提出したが、審査員シャルル=フランソワ・ドービニーの熱心な擁護にもかかわらず、再度落選した。セザンヌは、美術総監エミリアン・ド・ニューウェルケルク伯爵に、これに抗議し落選展の開催を求める手紙を送った。ゾラは、『レヴェヌマン』紙に連載したサロン評ではセザンヌについて一言も触れていないが、同年5月には、サロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文でセザンヌに触れるなど、ゾラとの強い友情は続いていた。セザンヌは、同年5月から8月まで、セーヌ川沿いの小村ベンヌクール(フランス語版)で制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろするカフェ・ゲルボワの常連となり、セザンヌもこれに加わった。もっとも、セザンヌは、都会の機知に富む会話の場にはなじめなかったようである。 1867年のサロンにも落選した。シスレー、バジール、ピサロ、ルノワールといった仲間たちも軒並み同様の目に遭った。1868年のサロンでは、審査員ドービニーの尽力により、マネ、ピサロ、ドガ、モネ、ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾといった仲間たちが入選したが、セザンヌだけは再び落選であった。カフェ・ゲルボワのメンバーの中でも、サロンに対する考えは様々であったが、セザンヌは、当たり障りのない作品を送って入選を目指すのではなく、最も攻撃的な作品を送って、自分たちを拒否している審査委員会の方が悪いことを明らかにすべきだとの考えの持ち主であった。 1869年、後に妻となるオルタンス・フィケ(英語版)(当時18歳)と知り合い、後に同棲するが、厳格な父を恐れ彼女との関係を隠し続けた。父からの月200フランの仕送りで2人の生活を支えなければならず、経済的には苦しくなった。 1870年のサロンには、画家仲間アシル・アンプレールを描いた肖像画を応募し、またも落選した。この年の7月19日に普仏戦争が勃発したが、母がエクスから約30キロ離れ地中海に面した村エスタックに用意してくれた家にフィケとともに移り、兵役を逃れた。 『「レヴェヌマン」紙を読む画家の父』1866年、198.5 × 119.3 cm。ナショナル・ギャラリー (ワシントン)。 『略奪』1867年頃、90.5 × 117 cm。フィッツウィリアム美術館。 『アシル・アンプレールの肖像』1868年頃、200 × 120 cm。オルセー美術館。 『ピアノを弾く若い娘』(『タンホイザー序曲』)1869-70年頃、57 × 92 cm。エルミタージュ美術館。 『饗宴』1870年頃、130 × 81 cm。個人コレクション。 『草上の昼食』1870-71年頃、60 × 81 cm。個人コレクション。 『聖アントワーヌの誘惑』1870年頃。油彩、キャンバス、52 × 73 cm。ビュールレ・コレクション。 『田園詩』1870年頃、65 × 81 cm。オルセー美術館。
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画家としての出発
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「モーリス・ユトリロ」の記事における「画家としての出発」の解説
病院をでたユトリロはこの頃、モンマニー周辺のモンマルトルで絵を描き始め、自分の進路を絵画に定めた。ヴァラドンも息子の絵に助言をしたが、基本的にユトリロは独学で絵を描いた。当時の技法は小さなボードの上にピサロやシスレーが用いた印象派独特の点描技法で厚く絵具を置くものだった。デッサンについてはまだ、特別な構図を追求しなかった。この頃の作品に『モンマニー風景』(1905年頃、リヨン美術館所蔵)と『屋根』(1906年、国立近代美術館所蔵)がある。同時期にユトリロは2歳年下のアンドレ・ユッテルと交流し意気投合する。
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