画家としての駆け出しと評価
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「レンブラント・ファン・レイン」の記事における「画家としての駆け出しと評価」の解説
アムステルダムから戻ったレンブラントは実家にアトリエを構え、さっそく製作に乗り出した。1625年には、時期が判明している初の作品『聖ステバノの殉教(聖ステバノの石打)』を製作した。また、この頃に同じラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高いヤン・リーフェンスと知り合い、競い合う関係が始まった。リーフェンスとは一時期共同で工房を持った。 1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、ヘラルト・ドウ やイサーク・ジューデルヴィルらが門下に入った。弟子の一人ホーホストラーテンは1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。このようにレンブラントは常に新たな領域へ踏み込むことに熱心であり、この頃にはエッチングに手を染め始めた。先が二股の彫刻刀を自作したり、貧者や老人の姿をテーマとした版画を数多く製作した。 この頃にはレンブラントは頭角を現し始めていた。ユトレヒトの法律家で美術評論家のファン・ブヘルは、1628年の自著『絵画』の中でレンブラントが賞賛を受けていることを記している。絵画以外にもエッチングがヨーロッパ中に流通したことも、レンブラントの名が広まる要因となった。オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの秘書官コンスタンティン・ホイヘンス(en)(数学者クリスティアーン・ホイヘンスの父)は、レンブラントとリーフェンスの両方に目をかけた人物である。ホイヘンスは二人を評して「創造性に優れる刺繍屋の息子(リーフェンス)と、判断力と表現力に優れる粉屋の息子(レンブラント)」と言い、いずれもが有名な画家と比肩し、そのうちにこれを超えるだろうと日記に認めた。イギリスのアンクルム侯爵がオランダを訪問した際、ホイヘンスはチャールズ1世への献上品として何枚かの絵画を渡したが、その中には二人の絵も含まれていた。この当時の作品『アトリエにいる風景』にてレンブラントはキャンバスに向かう自分の姿を描いているが、この時の衣裳は来客を迎える正装であり、すでに美術愛好家たちがレンブラントと接触を持っていたことを示す。
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