画家としての経歴と画風
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管道昇は、1296年頃に画家として、そして1299年に書家としての活動を始めたと考えられている 。書の才能に優れ、竹や梅を繊細かつ優雅な筆の運びで描いた。夫の趙孟頫と共に絵画を描いていたとも言われている 。管道昇、趙孟頫、そして夫婦の息子のひとり趙雍の書は、元朝の皇帝アユルバルワダによって巻物に収集された。アユルバルワダは、「夫と妻、そしてその息子の全員が書の才能に優れていることは稀なことだ」と評している。管道昇らの作品は勅封され、皇帝の収蔵品の一部となった。 竹という題材は、非常に魅力のある男性的な性質に染まっていると考えられていた。すなわち、竹の折れずに曲がる性質や冬を越す活力が、固い絆を象徴しているとされていたのである。そのため、管道昇が竹に焦点を当てた絵を描いていたことは、当時の女性芸術家としては異例であった。また、管道昇は竹に女性的な含蓄を加えるため、竹のそばに水域を描いたとも考えられている。趙孟頫の仕事場で発見された1301年以降の管道昇の墨竹画の巻物は、女性によって描かれる竹をめぐる言説に関する管道昇の認識をはっきりと示している。巻物には、「筆と墨で遊ぶのは男性的な行為だが、私はこの絵を描いた。誰か私が罪を犯したと言うのではなかろうか?何と卑劣なことか。何と見下げ果てたことか。」と自信たっぷりに書かれている。 管道昇の墨竹画は多くの賞賛を得た。特に、女性が描いたことが分からないほど男性的で力強い筆致に驚いたことを批評家たちは認めている。このような賞賛が、1317年に都の朝廷が管道昇に「魏国夫人」の称号を授けることに繋がったことには疑問の余地がない。実際、管道昇の作品には皇帝アユルバルワダとその姉セング・ラギの勅封を受けたものがあり、皇帝の収蔵品となった 。皇帝は、管道昇に有名な『千字文』の複写を注文していた 。管道昇の作品は朝廷で人気を博し、そのうえ多くの貴族の女性たちが管道昇に作品を注文していた。また、管道昇は元の寺院のために仏教壁画も描いた。 竹画の分野における管道昇の最も大きな貢献は、画面近くに密着する孤立した枝としてではなく、風景の一部として竹を描く傾向である。『煙雨叢竹』に見られるように、竹は茂みの一部として描かれ、置かれている風景や雰囲気の印象に従っているように見える。この画風は、元朝初期における氏名不詳の画家の伝統を引き継いでいる。画家の名前は中国では記録されていないが、禅僧によって彼の絵がもたらされた日本では檀芝瑞と呼ばれている。これらの管道昇の作品では、題材全体が霧のようにかすんだ雰囲気の影響下にある。そのため、墨の色調はあまり変化していない。 管道昇の作品の多くは、高位階級の女性のパトロンに捧げられたものであったと思われる。セング・ラギとの親交のほか、『煙雨叢竹』を「楚国夫人」に捧げたことが知られている。このように、管道昇はしばしば女性に作品を送ることで、宮廷における女性の影響力を高めようとしたと考えられる。
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