画家としての活動、晩年
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「ドラ・マール」の記事における「画家としての活動、晩年」の解説
ドラ・マールは戦時中に写真から絵画に転じた。ピカソに勧められてのことであったが、これ以後、主にキュビスム風の肖像画や静物画を描くようになった。1944年から戦後の45年にかけてサロン・ドートンヌに静物画を出展し、ルネ・ドルーアン画廊で行われた「ソ連の元捕虜・強制収容所に送られた人々のために芸術家が進呈した、または競売で落札された現代芸術の全作品」展や、アリエル画廊で行われたジャン・デュビュッフェ、ジャン=ミシェル・アトラン(フランス語版)、オスカル・ドミンゲスらとの団体展に参加した。 1945年5月にうつ病のためにサン=マンデの精神病院に入院し、精神分析家ジャック・ラカンのもとで電気けいれん療法を受けた。やがてカトリックに精神的な救いを見いだし、ヴォクリューズ県(プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域圏)のリュベロン山塊(Massif du Luberon)に囲まれた小村メネルブ(フランス語版)に隠棲した。これはピカソの援助によるものであったが、翌1946年末頃にはすでに3年にわたってフランソワーズ・ジローと関係をもっていたピカソとの決裂が決定的になった。さらに同年のヌーシュの急死が追い打ちをかけた。翌1947年にエリュアールがディディエ・デロッシュの偽名で発表したヌーシュ追悼詩集『時は溢れる』には、ドラ・マールとマン・レイによるヌーシュの肖像写真が掲載された。 ドラ・マールは以後もメネルブとパリを行き来しながら絵を描き続けた。主にリュベロン山塊やメネルブの抽象的な風景画を描き、団体展にも出展した。また、同じメネルブに住んでいたニコラ・ド・スタールと親交を深める一方、マリア・エレナ・ヴィエイラ・ダ・シルヴァ、レオノール・フィニらの女性芸術家やシュルレアリストの付き合いも1950年代末頃まで続いていた。1990年代に入って回顧展が行われるようになったが、ヴェルニサージュには出席しなかった。 1997年7月16日、パリ滞在中に体調を崩し、オテル・デュー・ド・パリ(フランス語版)病院に運ばれたが、同日、89歳で死去した。クラマール(イル=ド=フランス地域圏、オー=ド=セーヌ県)のボワ・タルデュー墓地に眠る。
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