画家として、博物学者として、そしてロボとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:27 UTC 版)
「アーネスト・トンプソン・シートン」の記事における「画家として、博物学者として、そしてロボとの出会い」の解説
帰郷後しばらくして、体調が回復したシートンは、同じくカナダで農場を経営する兄の元で農場の手伝いをしながら、森林や草原に現われるさまざまな動物を観察して細かく記録したりして過ごす。 1883年、ニューヨークの出版社で動物の絵を書く仕事を始めたが、大自然への憧れを抑えることができず、カナダに戻る。 1890年、さらなる絵の勉強をするためにパリへ出るも、また大自然が恋しくなりカナダへ戻る。 1892年には5年間マニトバ州政府の博物学者となり、博物学の専門書2冊を刊行する。 1893年、33歳のシートンの元に知り合いのアメリカの実業家から「牧場の牛が狼に襲われて困っているので動物に詳しい貴方に助けて欲しい」との手紙が来たため、ニューメキシコへ向かう。この狼ロボを捕獲し終えると、フランスに渡る。 1895年、アメリカに戻る。その時にグレース・ギャラトンと結婚する。 1896年、米国に永住、ニューヨークで生活を始める。 1898年、数年間雑誌に発表した物語のうち8編(「ロボ」「銀の星」「ギザ耳坊や」「ビンゴ」「スプリングフィールドの狐」「だく足のマスタング」「ワリー」「赤襟巻」)を集め、第1作品集『私の知る野生動物』(Wild Animals I Have Known )を刊行、大ヒットになる。シートンの名前は全米で知られるようになり、各地で講演を依頼され始める。
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