画家としての成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 05:41 UTC 版)
「アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン」の記事における「画家としての成功」の解説
1795年にフランスに戻るとルーヴル宮殿の一角にアトリエを与えられ、ボナパルト家のメンバーを含む多くの肖像画を描いた。1801年、フランソワ・ジェラールとともにマルメゾン城のためにジェイムズ・マクファーソンの『オシアン』を主題とする絵画を委託された。1806年にサロンに出展した『洪水の情景』は大きな話題を呼び、学士院は1810年の10年間の受賞報告書で『洪水の情景』を筆頭に挙げ、ダヴィッドの『サビニの女たち』をその下に置いた。さらに1808年、シャトーブリアンの小説『アタラ』(Atala, 1801年出版)を主題に選んで『アタラの埋葬』を制作し、絶大な人気を博した。1810年には『カイロの反乱』(La Révolte du Caire)を制作した。またこのころ私生活にも1つの変化があった。ジロデは1809年にトリオゾン医師の養子となり、1812年に養父の遺産を相続した。 1815年、ジロデは王立絵画彫刻アカデミーとフランス学士院の会員となり、1816年8月4日にフランソワ=アンドレ・ヴァンサンが死去すると、9月4日に彼の後任としてエコール・デ・ボザールの教授に任命された。また聖ミカエル騎士団の騎士でもあった。
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