軍歴と画家としての成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 07:02 UTC 版)
「ヤヌアルィ・スホドルスキ」の記事における「軍歴と画家としての成功」の解説
ヤヌアルィ・スホドルスキは、1797年にグロドノで生まれた。弟に詩人のライノルト・スホドルスキがいる。この地はかつてポーランド・リトアニア共和国の版図だったが、ポーランド分割によってロシア領となっており、共和国そのものも彼が生まれる直前の1795年に行われた第三次分割で消滅していた。しかし1807年、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトがワルシャワ公国を建設したことで、ポーランド国家はフランスの保護のもと一時的な復活を遂げていた。ヤヌアルィは1810年にワルシャワの騎士学校に入学した。1812年、ロシア遠征に敗れモスクワから逃げてきたナポレオンがひそかにワルシャワのアンギェルスキ・ホテルに逗留した際、スホドルスキはこのホテルの護衛をしていた。1823年、彼はヴィンツェンティ・クラシンスキの副官になった。この人物はもともとワルシャワ公国軍の将軍で、公国の崩壊とナポレオン退位の後は、ロシア帝国支配下のポーランド会議王国の近衛擲弾連隊長を務めていた。クラシンスキのつてにより、スホドルスキは王宮のギャラリーに入ることができ、ここでオラース・ヴェルネらの戦争画に出会った。またスホドルスキは、ユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチ、ヤン・パヴェウ・ヴォロニチ、カイェタン・コジュミアン、フランツィシェク・サレズィ・ドモホフスキ、アントニ・エドヴァルト・オディニェツ、モラフスキといった、当時のポーランドの第一線の芸術家たちが集う場に出る機会にも恵まれた。この頃、スホドルスキは軍事的なテーマ、特にコシチュシュコの蜂起やナポレオン戦争を題材とした絵を描き始めた。上司のクラシンスキが参加した半島戦争の絵も描いている。また画家のアントニ・ブロドフスキと知り合い、絵画大会では「ウィーンでのムハンマドの旗の奪取」や「ヴァルナでのラディスラウスの死」 といった作品で名声を獲得した。
※この「軍歴と画家としての成功」の解説は、「ヤヌアルィ・スホドルスキ」の解説の一部です。
「軍歴と画家としての成功」を含む「ヤヌアルィ・スホドルスキ」の記事については、「ヤヌアルィ・スホドルスキ」の概要を参照ください。
- 軍歴と画家としての成功のページへのリンク