軍歴前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/18 07:42 UTC 版)
「大沼龍太郎 (海軍軍人)」の記事における「軍歴前半」の解説
旧会津藩士で斗南藩司民掛開拓課に出仕した大沼親誠を父に、青森県三戸郡五戸村 に生まれる。長じて海軍兵学校機関科に進むが、在校中に制度改革が行われ、第二次海軍機関学校の1期生として1894年(明治27年)10月に卒業した。岩辺季貴ら10名が同期生である。 すでに日清戦争が戦われており、大沼は少機関士候補生として「吉野」に乗組み、威海衛の戦いなどに従った。戦後は「比叡」、「浪速」の分隊長(心得)を経て、1898年(明治31年)11月、「敷島」回航委員として英国出張を命じられ、翌々年の4月に帰国した。同艦や「橋立」の分隊長、機関学校教官を経て、1904年(明治37年)2月16日、「日進」が日本に回航されたその日に同艦分隊長に補される。同艦は整備を受けた後の4月に連合艦隊に編入され、大沼は日露戦争に出征した。在任中の「日進」は旅順港に対する間接射撃を実施し、また黄海海戦を戦った。翌年3月には「音羽」機関長に就任し、機関科の責任者として日本海海戦を戦った。大沼は戦後に功四級に叙されたが、「音羽」機関科について、艦長有馬良橘はその提出した戦闘報告書に次のように記述している。 戦闘中ハ勿論越テ三十日ニ至ルマデ約三昼夜機関部員ハ二時間交代二直配置ニ在リテ克ク全力運転ニ堪へ且ソノ間毫モ機関ニ故障ヲ生セシメス十分ニ機関ノ効力ヲ発揮セシメタル其ノ功績甚ダ偉大ナルモノト認ム — 極秘明治37.8年海戦史 音羽艦長海軍大佐有馬良橘の提出せる軍艦音羽日本海海戦戦闘報告
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