大沼龍太郎 (海軍軍人)とは? わかりやすく解説

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大沼龍太郎 (海軍軍人)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 20:58 UTC 版)

大沼 龍太郎
生誕 1871年6月18日
日本 陸奥国三戸郡五戸村
死没 (1935-04-20) 1935年4月20日(63歳没)
日本 東京市渋谷区笹塚[1]
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1895 – 1920
最終階級 海軍機関少将
除隊後 稚松会評議員
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大沼 龍太郎(おおぬま りゅうたろう、1871年6月18日明治4年5月1日) - 1935年昭和10年)4月20日)は、日本海軍軍人日清戦争では「吉野」乗組み機関候補生、日露戦争では「音羽」機関長、第一次世界大戦では第一南遣枝隊機関長として出征した。最終階級は海軍機関少将大沼 竜太郎[2]と表記される場合もある。

生涯

軍歴前半

会津藩斗南藩司民掛開拓課に出仕した[3]大沼親誠を父に、青森県三戸郡五戸村 [1]に生まれる。長じて海軍兵学校機関科に進むが、在校中に制度改革が行われ、第二次海軍機関学校の1期生として1894年(明治27年)10月に卒業した。岩辺季貴ら10名が同期生である。

機関長として日本海海戦を戦った防護巡洋艦音羽」(1905年)

すでに日清戦争が戦われており、大沼は少機関士候補生として「吉野」に乗組み、威海衛の戦いなどに従った。戦後は「比叡」、「浪速」の分隊長(心得)を経て、1898年(明治31年)11月、「敷島」回航委員として英国出張を命じられ、翌々年の4月に帰国した。同艦や「橋立」の分隊長、機関学校教官を経て、1904年(明治37年)2月16日、「日進」が日本に回航されたその日に同艦分隊長に補される。 同艦は整備を受けた後の4月に連合艦隊に編入[4]され、大沼は日露戦争に出征した。在任中の「日進」は旅順港に対する間接射撃[4]を実施し、また黄海海戦を戦った。翌年3月には「音羽」機関長に就任し、機関科の責任者として日本海海戦を戦った。大沼は戦後に功四級に叙された[1]が、「音羽」機関科について、艦長有馬良橘はその提出した戦闘報告書に次のように記述している。

戦闘中ハ勿論越テ三十日ニ至ルマデ約三昼夜機関部員ハ二時間交代二直配置ニ在リテ克ク全力運転ニ堪へ且ソノ間毫モ機関ニ故障ヲ生セシメス十分ニ機関ノ効力ヲ発揮セシメタル其ノ功績甚ダ偉大ナルモノト認ム  — 極秘明治37.8年海戦史 音羽艦長海軍大佐有馬良橘の提出せる軍艦音羽日本海海戦戦闘報告

軍歴後半

機関少佐の後半と機関中佐時代の補職は「満州」、「千歳」、「伊吹」各機関長としての海上勤務、呉海兵団機関長、呉海軍工廠検査官、海軍工機学校教官の陸上勤務であった。1913年大正2年)12月に機関大佐に進級し、佐世保海軍工廠検査官に補されたが、第一次世界大戦の勃発により第一南遣枝隊(以下「一南遣」)機関長として出征する。この部隊は山屋他人司令官とし、巡洋戦艦鞍馬」、「筑波」のほか「浅間」、駆逐艦から成り、さらに「生駒」、「磐手」、「筑摩」、「矢矧」が増勢されている[5]。一南遣は、イギリス海軍などと協力して海上交通の脅威となっていたドイツ東洋艦隊[* 1]の捜索にあたり、またドイツ領であった南洋群島各地を占領したが、ドイツ東洋艦隊との交戦には至っていない。一南遣は10月19日に解隊となり、翌年2月、大沼は山屋とともに第三戦隊に異動となり、中途に待命期間を挟みながら機関長を務めた。12月、舞鶴鎮守府機関長として帰還した。この地位にあること三年半を経過した1919年(大正8年)6月に機関少将へ昇進し、待命となる。予備役編入は翌年3月であった。その後軍事関係の会社に招聘され、また稚松会評議員として後進の育成に尽力している[1]

親族

姉のユキは出羽重遠に嫁ぐ[6][* 2]。妹のトヨは海軍大学校の学生であった鈴木貫太郎に18歳で嫁ぎ[7][8]1912年(大正元年)に死去した[9]。享年33[10]。トヨと貫太郎は一男二女に恵まれ、長女は陸軍大将藤江恵輔に、次女は鈴木の後妻となった足立タカの弟である足立仁に嫁いだ[11]。長男は鈴木首相秘書官、侍従次長を務めた鈴木一である。大沼が没した際、その嗣子である大沼清は近衛野砲連隊中隊長を務める陸軍砲兵大尉であった[1]

栄典

脚注

注釈
  1. ^ 司令官のシュペー中将は、神出鬼没な行動で連合国を翻弄し、フォークランド沖海戦で戦死した。この海戦では旗艦を犠牲にして麾下を救おうと図っている。 野村實は「古今東西の海戦史上、最高の名誉に値する」と高く評価している(『海戦史に学ぶ』)。
  2. ^ 大沼は萱野権兵衛の墓所(興禅寺)で営まれた福島県出身で上級学校に新入学した者(会津以外の出身者も含まれる)の歓迎会で故出羽重遠所持の勲章を閲覧させ、「国家に殊勲をたてよ」という旨の激励を行った(会津会雑誌第32号)。
出典
  1. ^ a b c d e 『稚松会会報第20号』「死亡会員略伝 大沼龍太郎君」
  2. ^ 追憶 海軍機関学校 海軍兵学校舞鶴分校 同窓会名簿”. 2013年2月14日閲覧。
  3. ^ 『慶應年間 会津藩士人名録』勉強堂書店
  4. ^ a b 『日本の海軍(上)』278頁
  5. ^ 『海戦史に学ぶ』151頁
  6. ^ 星亮一『出羽重遠伝』光人社NF文庫。123-125頁
  7. ^ 半藤一利『聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎』PHP文庫。51頁
  8. ^ 『鈴木貫太郎傳』25-26頁
  9. ^ 鈴木貫太郎『鈴木貫太郎自伝』日本図書センター、1997年。ISBN 978-4-8205-4265-0 巻末年譜
  10. ^ 『鈴木貫太郎傳』59頁
  11. ^ 『大衆人事録 東京篇』「鈴木貫太郎」
  12. ^ 『官報』第1782号「叙任及辞令」1918年7月11日。

参考文献

  1. 明治28年1月1日 現在艦船艇其他配員表』(防衛省防衛研究所蔵 海軍省公文備考類 海軍省-日清-M27-109 Ref C08040637100)
  2. 第22号 音羽艦長海軍大佐有馬良橘の提出せる軍艦音羽日本海海戦戦闘報告(防衛省防衛研究所蔵、「極秘 明治37.8年海戦史 第2部 戦紀 巻2備考文書第1」Ref.C05110087200 」
  3. 大正3年12月-大正4年3月』(「大正3年-6年 軍艦鞍馬 第2駆逐隊 機関部戦時日誌」Ref.C10080511300)
  4. 機関長会議(12)』(「大正5年 公文備考 官職附属 海軍大臣記録」Ref.C08020888400」)
  • 池田清『日本の海軍(上)』朝日ソノラマ、1987年。 ISBN 4-257-17083-2 
  • 鈴木貫太郎傳記編纂委員会『鈴木貫太郎傳』1961年。 
  • 野村實『海戦史に学ぶ』文春文庫、1994年。 ISBN 4-16-742802-4 
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』(第9巻)、第一法規出版。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 ISBN 4-8295-0003-4 
  • 帝国秘密探偵社『大衆人事録 東京篇』(第13版)1939年。

関連項目




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