軍歴と政歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 10:04 UTC 版)
「ウィリアム・ノース (第6代ノース男爵)」の記事における「軍歴と政歴」の解説
ノースは軍人への道を目指したものの、1689年から1691年までのウィリアマイト戦争では若すぎて参戦を拒否された。彼は代わりに1691年にフランドルに向かい、「ジェントルマン志願兵」として戦った。1698年、貴族院議員としてはじめて登院した。彼は長年マールバラ公爵の下で従軍、1704年8月13日のブレンハイムの戦いではノースおよびグレイ卿の歩兵連隊(英語版)を率いて戦い、右腕を失った。1710年、中将に昇進した。 軍務以外では1711年12月6日から1715年10月28日までケンブリッジシャー統監(英語版)を務め(それまでは初代ノース男爵(英語版)、第2代ノース男爵(英語版)、第3代ノース男爵(英語版)も同職を務めたことがあった)、またアン女王から枢密顧問官に任命された 。ノースは1714年にアン女王が死去した時点でポーツマス総督(英語版)であり、ジャコバイトに属した。ノース率いる駐留軍はスコッツガーズで構成されたが、毎日酒を飲むときはジャコバイトの支持する継承者ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートの健康を祝って乾杯したという。同じくジャコバイトのベリック公爵がポーツマスを基地としてイングランド侵攻を企んでいるとの憂慮があったため、ノースは即座に更迭されトマス・アール(英語版)が後任となった。1720年、王立協会フェローに選出された。 1721年8月、フランシス・アタベリー(英語版)によるステュアート家復位の陰謀に関与したとして逮捕された(アタベリー陰謀事件)。しかし、だれもノースに不利な証言を拒否したため、彼は無事釈放された。一方、ノースの代表で法律顧問のクリストファー・レイヤー(英語版)は首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。ノースは釈放された後、大陸ヨーロッパに向かったが、そのときにカトリックに改宗したとされる。1722年1月6日、ジャコバイト爵位のノース伯爵に叙された。続いてスペイン王フェリペ5世のもとで将軍を務めた。 1734年10月31日、ノースはマドリードで死去した。ノースの死によりグレイ・オブ・ロールストン男爵は断絶したが、ノース男爵と財産は親族の第3代ギルフォード男爵フランシス・ノース(ノースの叔父初代ギルフォード男爵フランシス・ノース(英語版)の孫)が継承した
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