ステュアート朝での軍歴と政歴
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「ジェームズ・バリー (第4代バリーモア伯爵)」の記事における「ステュアート朝での軍歴と政歴」の解説
1688年に名誉革命が勃発すると、同年12月31日にオラニエ公ウィレム3世の軍勢で中佐になり、1693年にいったん陸軍から身を引いたものの1702年3月に歩兵連隊(英語版)隊長の職を購入、以降1715年まで務めた。スペイン継承戦争では初代ゴールウェイ伯爵ヘンリー・デ・マシューの配下で歩兵連隊を率いていたが、1707年4月25日にアルマンサの戦いで敗れて捕虜になった。同年に准将に昇進した後、1709年に少将に昇進、同年5月に捕虜になり、8月に捕虜交換で釈放されて帰国、1710年1月に中将に昇進した。 グレートブリテン議会では1710年イギリス総選挙でストックブリッジ選挙区(英語版)から出馬して当選した。当選時点ではトーリー党所属とされたが、1713年6月までに「気まぐれな」(whimsical)トーリー党員になったとされた。また、同時期にも軍務を続け、1711年に再びスペイン行きとなり、1712年秋にいったん帰国したが1713年2月には再びスペインに滞在、4月までに帰国した。1713年イギリス総選挙ではストックブリッジ選挙区のほか、義父第4代リヴァーズ伯爵リチャード・サヴェージ(英語版)の影響力を借りてウィガン選挙区(英語版)でも出馬したが、両選挙区とも落選に終わった。バリーモア伯爵は選挙申立を行い、ウィガン選挙区での申立は却下されたが、ストックブリッジ選挙区で当選したサー・リチャード・スティール(英語版)が議会から追放されたためバリーモア伯爵は議員に復帰することができた。そして、バリーモア伯爵は次の総選挙である1715年イギリス総選挙までにウィガンでの足場を固め、今度は当選に成功した。また、1714年1月29日にはアイルランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命されている。
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