ステュアート朝において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 03:22 UTC 版)
「フィリップス・ギボン」の記事における「ステュアート朝において」の解説
同年の総選挙で自邸近くのライ選挙区(英語版)からの出馬を表明したが、十分な支持を得られず、投票日までに撤退した。1705年イングランド総選挙で再び落選するも、トーリー党候補2人(フィリップ・ハーバートとエドワード・サウスウェル(英語版))が21票でホイッグ党候補2人(ギボンとチャールズ・ファッグ(Charles Fagg))が19票と僅差だったため、ギボンとファッグは選挙申し立てを提出した。1度目の申し立ては審議されなかったが、落選への補償の一環として1706年3月にケントで裁判官に復帰した。1706年12月4日に提出した2度目の申し立ては1707年1月に審議され、投票を拒否された自由市民(freeman)数名に投票権があったかどうかについてが争点となった。この申し立ても最終的には1月23日に僅差で却下されたが、11月にハーバートが海軍傷病者委員会(英語版)の委員(commissioner for sick and wounded、庶民院議員と兼任できない官職)についていることが発覚したため、急遽補欠選挙が行われる運びになり、ギボンはこの補欠選挙で五港長官のジョージ・オブ・デンマークの支持を受けて無投票当選を果たした。 補欠選挙から数か月後の1708年イギリス総選挙でも五港長官の支持を受けて、同じくホイッグ党候補のサー・ジョン・ノリス(英語版)とともに当選、トーリー党候補のサウスウェルとジョン・アシュバーナム閣下は選挙申し立てを提出したが、この申し立ては審議されなかった。1710年イギリス総選挙もほぼ同じ経過を辿り、五港長官(1708年に第7代ドーセット伯爵ライオネル・サックヴィルが就任)の支持を受けたギボンとノリスが29票で当選した後、トーリー党候補のサウスウェルとジョン・エリス(John Ellis、2人ともに17票)が選挙申し立てを提出した。この申し立てはギボンとノリスの29票のうち16票への異議が含まれており、1711年2月に審議されたが、庶民院選挙委員会は問題票のうち12票への異議に同意、残りの4票に同意しなかったため、結果を覆すには至らなかった。『英国議会史(英語版)』によると、これはトーリー党多数の議会においてはやや意外(somewhat surprising)であった。委員会が無効とした12票は自由市民(freeman)への選出手続きが争点となっており、自由市民権を所有していないと裁定された12名のうち11名は同年8月に改めて自由市民に選出され、申し立てで挙げられた問題点が解消された。 1713年イギリス総選挙もホイッグ党候補2名(ギボンとノリス)とトーリー党候補2名(サミュエル・リン(Samuel Lynn)とジョン・チェンバレン(英語版))の対決になったが、今度はホイッグ党候補が大差(28票対9票)で勝利、リンとチェンバレンによる選挙申し立てはわずか1日で撤回された。 議会では大方の予想通りホイッグ党の一員としてふるまい、1710年にヘンリー・サシェヴェレル(英語版)の弾劾を支持、1711年12月7日の「スペインなくして講和なし」の動議を支持、1714年3月18日に採決にかけられたリチャード・スティール(英語版)の議会追放に反対した。ステュアート朝では同じくライ選挙区から選出された海軍軍人サー・ジョン・ノリス(英語版)がスペイン継承戦争により地中海艦隊で活動することが多く、ライに関する事柄はギボンに任せられたという。
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