ステュアート朝への王朝交代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 15:00 UTC 版)
「ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)」の記事における「ステュアート朝への王朝交代」の解説
エリザベス女王は生涯結婚しなかったため、子供もなかった。また自らの影響力の低下を恐れて後継者の指名もしなかった。しかしスチュアート家のスコットランド王ジェームズ6世が衆目の一致する後継者であった。そのため女王の晩年にはイングランド有力者はこぞってジェームズ6世と接触を図った。この面においてはエセックス伯がセシルに先んじており、ジェームズ6世に自らを売り込むと同時にセシルがいかに信用ならない者かを吹聴していた。しかし1601年にエセックス伯が処刑されたため、ジェームズ6世は交渉相手をセシルに切り替えるしかなくなり、以降2人は2年に渡って文通した。その間セシルはイングランドをいかに統治すべきかをジェームズ6世に助言し、信仰を異にする者を迫害・処刑してはならないことなどを説いた。ジェームズ6世も留保を付けながらもセシルの助言に概ね同意を表明した。また政敵への讒言もジェームズ6世に吹き込み、ウォルター・ローリーを失脚へ追いやった。 1603年3月に入るとエリザベス女王が重体となった。セシルは女王崩御に備え、ジェームズ6世に彼がイングランド王に即位する旨の布告の原案を送り届けて王位継承準備を整えた(エリザベスがジェームズへの王位継承を認めていたかどうかは不明)。3月24日にエリザベスは崩御し、ジェームズ6世が同君連合でイングランド王ジェームズ1世として即位し、ステュアート朝が始まった。ジェームズ1世への王位継承がスムーズに行えたのは、セシルの尽力によるところが大きかった。 ジェームズ1世はエリザベス体制を継続するという暗黙の条件でやってきたため、セシルはジェームズ1世の許でも国王秘書長官に在職し続けることができた。ジェームズ1世の下で外交を主導し先代の反スペインから親スペインへ方針転換、1604年8月にロンドン条約(英語版)を締結した。ジェームズ1世も平和外交を重視、スペインとフランスの調停者として振る舞った。 ジェームズ1世は同年5月にもセシルにエッセンドンのセシル男爵位を与えた。さらに1604年8月にはクランボーン子爵、1605年5月にはソールズベリー伯爵位を与えた。またジェームズ1世との邸宅交換でハートフォードシャーにあるハットフィールド・ハウスを手に入れ、以降この邸宅は現在に至るまでソールズベリー伯爵・ソールズベリー侯爵家(第7代ソールズベリー伯爵ジェームズ・セシルの代の1789年にソールズベリー侯爵位を与えられる)に代々受け継がれている。
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