肖像画家としての成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 03:42 UTC 版)
「フランツ・ヴィンターハルター」の記事における「肖像画家としての成功」の解説
多くの王室肖像画のモデルにはヴィクトリア女王もいた。1842年に初めてイギリスを訪問して以来、ヴィクトリア女王とアルバート公、さらには増えていく2人の家族を描くために幾度となく再訪して少なくとも120点の絵画を製作した。その多くは王室所蔵品(Royal Collection)としてバッキンガム宮殿ほかの王宮で公開展示されている。ヴィンターハルターはまたイギリス貴族の肖像を何点か製作しているが、そのほとんどが宮廷と社交のあった人物である。1848年のルイ・フィリップの亡命にも評判を落とすことはなく、ヴィンターハルターはスイスへ行き、ベルギーとイギリスで仕事をした。 王朝の瓦解から次の王朝の興隆まで、ヴィンターハルターは不遇の時代を耐え続ける。死の数年前までパリを離れることはなく、フランスでの肖像画依頼が途絶えると、歴史画のような古典的分野に戻り『フロリンダ(Florinda)』(1852、ニューヨーク、メトロポリタン美術館)を描いている。スペインの伝承をもとに女性美を賛美した喜悦に満ちた作品である。同年、婚約を破棄され、独身のまま絵画制作に専念した。 ナポレオン3世即位後、ヴィンターハルターの人気は上昇し、以降フランス第二帝政下でフランス皇室の宮廷主席画家となった。美しいウジェニー皇后を好んでモデルとし、皇后もヴィンターハルターの要請に積極的に応じた。1855年、ヴィンターハルターは傑作『侍女に囲まれたウジェニー皇后の肖像(Portrait de l'Impératrice Eugénie entourée de ses dames d'honneur)』を描く。この絵でヴィンターハルターは、牧歌的な光景の中に、侍女とともに仲良く輪になって花を集めるフランス皇后を配した。この絵は賞賛を浴び、1855年の万国博覧会で展示された。今なおヴィンターハルターの最も有名な作品である。 1852年、ヴィンターハルターはスペインに行き、イサベル2世女王と娘マリア・イザベル王女の肖像画を描いた。パリを訪れたロシア貴族も競ってこの高名な巨匠に肖像画を注文した。その後、「王侯の画家」の異名を授かったヴィンターハルターの元にはイギリス王室(1841年から)をはじめスペイン、ベルギー、ロシア、メキシコ、ドイツ各地、フランスの各帝室・王室から依頼が相次いだ。ポーランド貴族、ロシア貴族を描いた重要な肖像画も数多く製作している。1857年にはロシア皇后(Царица)マリア・アレクサンドロヴナの肖像画を描いている。 1860年代のマクシミリアン1世による第2次メキシコ帝国下で、ヴィンターハルターは皇帝皇后夫妻の肖像画製作を請け負った。メキシコ皇后シャルロッテの母は、フランスで画業を始めた頃にヴィンターハルターが肖像画を描いたベルギー王妃ルイーズ・マリーであった。メキシコ皇室関係者の肖像画のいくつかは今もメキシコシティの皇宮チャプルテペク城(現在の国立歴史博物館(Museo Nacional de Historia)にある。
※この「肖像画家としての成功」の解説は、「フランツ・ヴィンターハルター」の解説の一部です。
「肖像画家としての成功」を含む「フランツ・ヴィンターハルター」の記事については、「フランツ・ヴィンターハルター」の概要を参照ください。
- 肖像画家としての成功のページへのリンク