肖像画家としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 07:55 UTC 版)
「ジャン=フランソワ・ミレー」の記事における「肖像画家としての活動」の解説
ミレーは、1840年のサロンに2点の肖像画を提出し、このうち、親友マロルの父親を描いた『ルフラン氏の肖像』が初入選を果たした。これを機に、パリを去ってシェルブールに戻った。1841年11月、洋服仕立屋の娘ポーリーヌ=ヴィルジニー・オノと結婚した。 ミレーは、シェルブールの社交界で肖像画家としての名声を得、次々に肖像画の注文を受けた。1840年から1843年にかけて、50点以上の肖像画を制作し、そのほとんどが油彩である。その中で、シェルブール市議会から、亡くなったばかりの前市長ジャヴァン氏の肖像画の注文を受けたが、ミレーは故人を知らず、若い時の不出来な肖像画しか与えられない状態で制作せざるを得なかった。出来上がりは不評で、市議会が300フランの報酬を100フランに値切ったため、ミレーは落胆し、市議会に肖像画を寄贈してしまった。 1842年、妻ポーリーヌとともにパリに移った。1842年、1843年のサロンに応募したが、落選した。しかし、ポーリーヌは、不健康な都会生活や貧しさから結核にかかり、1844年4月21日、亡くなってしまった。この年のサロンには2点が入選したが、妻の死に落胆したミレーは、パリを去った。 『ジャヴァン氏の肖像』1841年。トマ=アンリ美術館。 『ルイーズ=アントワネット・ファルダンの肖像』1841年。油彩、キャンバス、73.3 × 60 cm。ゲティ・センター。 『自画像』1841年。トマ=アンリ美術館。 『部屋着姿のポーリーヌ・オノの肖像』1843-44年。油彩、キャンバス、100 × 80 cm。トマ=アンリ美術館。
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