真田昌幸
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真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
注釈
- ^ a b 昌幸の肖像の原図は高野山蓮華定院所蔵の物であるが、現在ではそれを模写したあるいは転写したものが伝わっている[64]。ただ、基本的な図柄はほぼ同じであるが顔の部分にそれぞれかなりの相違が認められ、その理由は不明である[64]。一説に転写した物が原画成立時よりかなり時期を経ていたためではないかとされる[65]。
- ^ 山手殿(寒松院殿)の出自に関しては諸説あり、山手殿の項を参照。
- ^ 天文14年(1545年)生まれとする説もある[2]。ただし、こちらの説は後世に作られた系図注記や編纂書によるものであり、余り信頼性はないとされる[3]。
- ^ 武田氏の足軽大将のうち甲斐出身者の甲斐衆では有力家臣の子弟が皆無でいずれも小身であることが指摘され、昌幸はその中で例外的存在であるが、これは昌幸が武藤家に養子に入っていたため甲斐衆として扱われたものと考えられている[7]。
- ^ かつて、佐藤博信は北条氏邦の名乗りの安房守は真田昌幸に対抗したものだとする説を提示したが[28]、長塚孝は安房守を名乗ったのは昌幸より氏邦の方が先であったことを示すとともに、氏邦の安房守は上野国の守護職であった山内上杉家(上杉憲実らの先例)に対抗するための名乗りであるとの説を唱えている[29]。
- ^ 『上田軍記』では「昌幸思慮有りけるは、家康公の某(昌幸)を往々手障りに成るべき者と思し召され、領地を削り、小身になし、終に我が家を亡ぼし玉ふべき謀と思按ありて」とある。
- ^ 徳川家は敗戦を糊塗するため兵数を少な目に記録しているとも言われる。戦闘員の実数に近いのかもしれないが、通例に習えば万余の動員に匹敵するかとも言われる。
- ^ これについても、実数については諸説がある。士分2000に加え、守戦故の領民総動員体制が敷かれたと見るのが自然。小説『真田太平記』などでは上杉の後詰めは皆無・僅少の如く書かれているが、必ずしも同様ではない記録もあり後詰があったと考えるのが自然。
- ^ 歴史小説家・伊東潤は著書『戦国関東血風録』『城を噛ませた男』中で、昌幸の謀略と考察している。北条が健在ならば沼田の地は取り戻せない。そのため猪俣を篭絡してあえて城を奪取させ、北条との開戦のきっかけとした。そして開戦すると猪俣を真田の陣に降らせ、篭絡の餌とした空手形が秀吉に知られないために、戦後のどさくさに紛れて邦憲とその一族を闇から闇へ葬った、と記している。
- ^ 『真田家文書』では「在々所々の土民、百姓ども還住の儀を仰せ出され候。そこ許堅く申し触れるべく候、東国の習いに女・童部をとらえ売買仕る族は、後日なりとも聞こし召し付けられ次第、御成敗を加えらるべく候、もし捕らえ置く輩これあれば、早々に本在所へ返し置くべく候」とある。
- ^ 『真田家文書』では「伏見御作事御用に候の条、柾め板百五十駄、国許に残し置き候人数をもって、木曽より朝妻(近江)まで相届け、即ち石川兵蔵奉行に相渡すべく候、急の御用に候の条、油断すべからず候」とある。
- ^ 比興とは、賦(素直)ではないという意味。詩経#内容を参照。
- ^ 『真田家文書』では「御親父様高野に於いて御遠行の儀、是非に及ばざる事にて候、しからば貴公御弔い成されたきの由、願い及ぶは尤もの筋に候えども、公儀御はばかりの仁に候間、御諚を得させられ候てはいかがの儀か」と正信が返答したとある。
出典
- ^ 柴辻 1996, p.20.
- ^ a b 『藩翰譜』
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- ^ a b 柴辻 1996, p.1
- ^ a b c 柴辻 1996, p.55
- ^ 『高白斎記』
- ^ 平山優『山本勘助』
- ^ 『甲斐国志』
- ^ a b 柴辻 1996, p.35
- ^ 柴辻 1996, p.58.
- ^ 平山優『大いなる謎真田一族 : 最新研究でわかった100の真実』PHP研究所、2015年。ISBN 9784569763705。
- ^ 柴辻 1996, p.49.
- ^ 柴辻 1996, p.60.
- ^ 柴辻 1996, p.59.
- ^ 武田信玄朱印状(竜雲寺文書)(上田市立博物館 2005, pp. 3, 52(写真掲載))
- ^ 柴辻 1996, p.52.
- ^ 柴辻 1996, p.54.
- ^ a b 柴辻 1996, p.61
- ^ 柴辻 1996, p.64.
- ^ 中澤克昭「真田氏の本拠を訪ねて」(『信濃』46巻11号、1994年)
- ^ 『長野県史』通史編 第四巻 近世一(1987年)51頁
- ^ 中澤克昭「真田氏の本拠を訪ねて」(『信濃』46巻11号、1994年)
- ^ a b 柴辻 1996, p.83
- ^ a b 柴辻 1996, p.84
- ^ 柴辻 1996, p.85.
- ^ a b 長野市教育委員会・松代文化施設等管理事務所(真田宝物館)編集・発行『戦国の真田』平成28年5月刊
- ^ 『校注 本藩名士小伝』 p195
- ^ 佐藤博信「戦国期における東国国家論の一視点-古河公方足利氏と後北条氏を中心として-」『歴史学研究一九七九年度大会別冊』
- ^ 長塚孝「戦国武将の官途・受領名-古河公方足利氏と後北条氏を事例として-」(初出:『駒沢史学』39・40号(1988年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二三巻 北条氏康』(戒光祥出版、2018年)ISBN 978-4-86403-285-8)
- ^ 平山(2011)、pp.147-151
- ^ 柴辻俊六「織田政権と真田昌幸」(『日本歴史』566号、1995年)
- ^ 丸島和洋「真田弁丸の天正一〇年」(『武田氏研究』52号、2015年)
- ^ 『上州治乱記』
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- ^ 寺島隆史「第一次上田合戦前後における真田昌幸の動静の再考」(『信濃』62巻5号、2010年)
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- ^ 寺島隆史「武田氏滅亡後の室賀氏の動静と真田昌幸-屋代秀正の動きも合わせて「室賀謀殺」に至るまで-」(『信濃』64巻11号、2012年)
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- ^ “真田庵”. 九度山町. 九度山町. 2015年2月7日閲覧。
- ^ a b 柴辻 1996, p.215
- ^ (上田市立博物館 2005, pp. 98–101)
- ^ a b 柴辻 1996, p.216
- ^ 信綱寺宛真田昌幸書状(信綱寺文書)(上田市立博物館 2005, p. 99(写真掲載))
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- ^ 柴辻 1996, p.226.
- ^ 『名将言行録』、『週刊ビジュアル日本の合戦』
- ^ a b 柴辻 1996, p.218
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