汪兆銘の死とその後の南京国民政府
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「汪兆銘」の記事における「汪兆銘の死とその後の南京国民政府」の解説
1943年12月19日、日本陸軍の南京第一病院(原隊は名古屋陸軍病院)で、8年前の狙撃事件において摘出できなかった弾を取り出す手術がおこなわれた。下半身にしびれを感じ、歩行がおぼつかなくなったためであるが、経過は順調で翌日には退院した。 12月28日、医学を勉強していた次女の汪文彬が陳新明と婚約した(ただし、のちに相手方の不祥事が発覚したため、駐日大使徐良立ち会いのもと、婚約を解消している)。 1944年に入ると、1月上旬に左下肢、次いで右下肢が麻痺して歩行困難となり、1月下旬には下半身不随の重体となった。汪兆銘の歩き方から察すると、手術の後遺症とは考えられなかったが、若い頃から体質的な糖尿病を病んでおり、これが症状をさらに悪化させていた。2月、東北帝国大学の黒川利雄教授が汪公館を訪ねて診察し、名古屋帝国大学の斎藤真教授に応援を依頼、斎藤真教授は診察を終えると、即座に汪兆銘に来日して入院するよう指示した。 3月3日、南京を出発した汪兆銘は、陳璧君夫人と何文傑夫妻、通訳、医師らを同行し、国民政府の後事を立法院院長の陳公博と行政院副院長の周仏海に託して岐阜県各務原飛行場に到着した。汪兆銘の南京からの連れ出す作戦は、汪の愛した梅の花にちなみ、「梅号作戦」と呼ばれた。汪はそのまま名古屋帝国大学医学部附属病院に入院した。医師団は、名古屋帝大から斎藤真(外科)・名倉重雄(整形外科)・勝沼精蔵(内科)・田村春吉(放射線科)・三矢辰雄(放射線科)、東北帝大から黒川利雄(内科)、東京帝国大学から高木憲次(整形外科)という、当時としては各分野のトップクラスが集められた。病名はのちに多発性骨髄腫と診断され、体内に残った弾を摘出したものの弾が腐蝕して悪影響を及ぼしたのが原因と考えられた。患部には腫れがあり、周囲を圧迫するところから、入院翌日には第4および第7胸椎の椎弓を切除する手術がなされ、これには成功した。 汪公館に務めた程西遠の記録によれば、見舞客としては、東条英機・近衛文麿・石渡荘太郎・青木一男・小倉正恒・杉山元・小磯国昭・阿部信行・柴山兼四郎・後宮淳・天羽英二・重光葵・松井太久郎らの名があり、中国人では、家族のほか方君璧・褚民誼・周仏海・蔡培・鮑文樾らが見舞った。最後の見舞客は宮崎滔天の子息、宮崎龍介であった。 東条は、汪兆銘のために防空壕が必要だとして首相命令で突貫工事をおこない、7月には完成した。汪兆銘がはじめて防空壕に入ったのは8月11日のことであった。11月5日、空襲警報が発令され、このときも防空壕に入った。 汪兆銘は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続け、夏ごろには一時回復したが、11月10日、名古屋において死去。61歳。遺体を陸軍小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際には、小磯国昭首相・重光葵外相ら当時の政府閣僚、近衛文麿・東条英機ら重臣が見送りに訪れた。なお、名古屋大学の大幸医療センターには、汪兆銘の死後、彼の遺族より治療に対する感謝として寄贈された梅が今も残っている。 南京では空港から汪公館までの沿道に民衆がつめかけて棺を迎えた。街は半旗を掲げて静まりかえっており、南京市民が汪兆銘を敬慕していたことをうかがわせる。葬儀委員長は陳公博で、11月18日、中央政治委員会で汪の国葬が決まったが夫人の陳璧君はこれを拒否し、故郷の広東でひっそりと葬儀を行いたいと希望した。しかし、陳公博は、南京は故人が生涯をかけて設置した国民政府のある場所だから初代主席の葬儀はお膝元でおこなうのが当然であると述べ、重慶との合体がかなったならば正式な国葬をおこなうとしても、とりあえず経費を切り詰めた質素な仮国葬のかたちにしてはどうかと説得した。夫人はこれに従い、南京郊外の梅花山に埋葬することとしたが、墓を暴かれる恐れから、棺をコンクリートで覆った。陳璧君は「魂兮帰来(祖国に帰ってきた魂)」の4字を書いて、夫の霊に捧げた。 汪兆銘の後任の南京国民政府主席には汪兆銘の渡日以来主席代理を務めていた陳公博が就任した。しかし、陳公博もまた汪兆銘同様、対外的な必要のあるとき以外は「主席」を名乗らず、「行政院院長」の肩書を使用した。 国民政府は、ポツダム宣言受諾が公表された翌日の1945年8月16日に解散した。9月9日、国民党第七四軍は汪兆銘の墓を被覆したコンクリートの外壁を爆破した。10月10日、陳璧君、その義弟で駐日大使や外交部部長を務めた褚民誼、長男汪文嬰、女婿何文傑が逮捕された。 日本占領下で治安維持にあたっていた南京国民政府の要人は、蔣介石によって叛逆罪として処刑された。陳公博も褚民誼も銃殺刑に処せられた。要人たちのなかの一派は、姓名を変えて共産軍へと走った。汪兆銘の妻の陳璧君は無期懲役刑に処せられ、蘇州の獅子口監獄に収監され、のちに上海の獄中で死去している。 1946年、汪兆銘の棺から取り出された遺体が火葬ののち、遺灰は原野に廃棄された。「漢奸」(対日協力者)の墓を残すわけにはいかないとの考えからとみられる。 1948年、汪文嬰と何文傑が釈放され、この年から1949年にかけて汪氏の一家は香港に移った。香港移住当初、汪氏という名前が災いして中国人社会で自由に就職できない一時期があり、今も共産党政権下の中国には足を踏み入れていない。アメリカに移ってからも長男・長女は住所の公表を許しておらず、香港に残った子女も汪兆銘の係累であることは隠して生活している。 汪兆銘の死から50年経った1994年、南京の梅花山に汪兆銘夫婦の跪像が設置された。それは、周囲を柵で囲み、後ろ手にしばられた汪兆銘と陳璧君がひざまずいたかたちで座った石像であり、南宋の首都であった浙江省杭州の西湖のほとりに所在し、金に対して和平を唱えた秦檜夫婦の銅像(これらに唾を吐き掛ける習慣があった)になぞらえたものであった。この像は1999年に撤去されている。
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