汪兆銘の死とその後の南京国民政府とは? わかりやすく解説

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汪兆銘の死とその後の南京国民政府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:36 UTC 版)

汪兆銘」の記事における「汪兆銘の死とその後の南京国民政府」の解説

1943年12月19日日本陸軍南京第一病院原隊名古屋陸軍病院)で、8年前の狙撃事件において摘出できなかった弾を取り出す手術おこなわれた下半身にしびれを感じ歩行おぼつかなくなったためであるが、経過は順調で翌日には退院した12月28日医学勉強していた次女の汪文彬が陳新明婚約した(ただし、のちに相手方不祥事発覚したため、駐日大使徐良立ち会いのもと、婚約解消している)。 1944年に入ると、1月上旬左下肢、次いで右下肢が麻痺して歩行困難となり、1月下旬には下半身不随重体となった汪兆銘歩き方から察すると、手術後遺症とは考えられなかったが、若い頃から体質的な糖尿病病んでおり、これが症状をさらに悪化させていた。2月東北帝国大学黒川利雄教授が汪公館訪ねて診察し名古屋帝国大学斎藤真教授応援依頼斎藤真教授診察終えると、即座に汪兆銘来日して入院するよう指示した3月3日南京出発した汪兆銘は、陳璧君夫人と何文傑夫妻通訳医師らを同行し国民政府後事立法院院長陳公博行政院副院長周仏海託して岐阜県各務原飛行場到着した汪兆銘南京からの連れ出す作戦は、汪の愛した梅の花にちなみ、「作戦」と呼ばれた。汪はそのまま名古屋帝国大学医学部附属病院入院した医師団は、名古屋帝大から斎藤真外科)・名倉重雄(整形外科)・勝沼精蔵内科)・田村春吉放射線科)・三矢辰雄(放射線科)、東北帝大から黒川利雄内科)、東京帝国大学から高木憲次整形外科)という、当時としては各分野トップクラス集められた。病名はのちに多発性骨髄腫診断され体内残った弾を摘出したものの弾が腐蝕して悪影響及ぼしたのが原因考えられた。患部には腫れがあり、周囲圧迫するころから入院翌日には第4および第7胸椎椎弓切除する手術がなされ、これには成功した。 汪公館務めた西遠記録によれば見舞客としては、東条英機近衛文麿石渡荘太郎青木一男小倉正恒杉山元小磯国昭阿部信行柴山兼四郎後宮淳天羽英二重光葵松井太久郎らの名があり、中国人では、家族のほか方君璧・褚民誼周仏海蔡培鮑文樾らが見舞った最後見舞客は宮崎滔天の子息、宮崎龍介であった東条は、汪兆銘のために防空壕必要だとして首相命令突貫工事おこない7月には完成した汪兆銘がはじめて防空壕入ったのは8月11日のことであった11月5日空襲警報発令され、このときも防空壕入った汪兆銘身体の激痛に耐えながら闘病生活続け、夏ごろには一時回復したが、11月10日名古屋において死去61歳遺体陸軍小牧飛行場から飛行機乗せて送り出す際には、小磯国昭首相重光葵外相当時政府閣僚近衛文麿東条英機重臣見送り訪れた。なお、名古屋大学大幸医療センターには、汪兆銘死後彼の遺族より治療対す感謝として寄贈されが今も残っている。 南京では空港から公館までの沿道民衆つめかけて迎えた。街は半旗掲げて静まりかえっており、南京市民が汪兆銘敬慕していたことをうかがわせる葬儀委員長陳公博で、11月18日中央政治委員会で汪の国葬決まった夫人陳璧君はこれを拒否し故郷広東でひっそりと葬儀行いたい希望した。しかし、陳公博は、南京故人生涯をかけて設置した国民政府のある場所だから初代主席葬儀お膝元でおこなうのが当然であると述べ重慶との合体かなったならば正式な国葬をおこなうとしても、とりあえ経費切り詰めた質素な国葬のかたちにしてはどうかと説得した夫人はこれに従い南京郊外梅花山に埋葬することとしたが、墓を暴かれ恐れから、コンクリート覆った陳璧君は「魂兮帰来祖国帰ってきた魂)」の4字を書いて、夫の霊に捧げた汪兆銘後任南京国民政府主席には汪兆銘渡日以来主席代理務めていた陳公博就任した。しかし、陳公博もまた汪兆銘同様、対外的な必要のあるとき以外は「主席」を名乗らず、「行政院院長」の肩書使用した国民政府は、ポツダム宣言受諾公表され翌日1945年8月16日解散した9月9日国民党第七四軍汪兆銘の墓を被覆したコンクリート外壁爆破した10月10日陳璧君、その義弟駐日大使外交部部長務めた褚民誼長男汪文嬰、女婿何文傑が逮捕された。 日本占領下で治安維持にあたっていた南京国民政府要人は、蔣介石によって叛逆罪として処刑された。陳公博褚民誼銃殺刑処せられた。要人たちのなかの一派は、姓名変えて共産軍へと走った汪兆銘の妻の陳璧君無期懲役刑処せられ、蘇州獅子口監獄収監され、のちに上海獄中死去している。 1946年汪兆銘から取り出され遺体火葬ののち、遺灰原野廃棄された。「漢奸」(対日協力者)の墓を残すわけにはいかないとの考えからとみられる1948年、汪文嬰と何文傑が釈放されこの年から1949年にかけて汪氏の一家香港移った香港移住当初、汪氏という名前が災いして中国人社会自由に就職できない一時期があり、今も共産党政権下中国には足を踏み入れていない。アメリカ移ってからも長男長女住所公表許しておらず、香港残った子女汪兆銘係累であることは隠して生活している。 汪兆銘の死から50年経った1994年南京梅花山に汪兆銘夫婦跪像設置された。それは、周囲を柵で囲み後ろ手しばられ汪兆銘陳璧君ひざまずいたかたちで座った石像であり、南宋首都であった浙江省杭州西湖のほとりに所在し、金に対して和平唱えた秦檜夫婦銅像(これらに唾を吐き掛ける習慣があった)になぞらえたものであった。この像は1999年撤去されている。

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