汪兆銘らとの決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 14:42 UTC 版)
日中戦争(抗日戦争)勃発後の1938年(民国27年)6月には、顧孟余は国民参政会参政員に当選し、さらに国民党中央宣伝部部長に返り咲いた。同年12月、重慶脱出直前の汪兆銘を顧は説得して翻意させようとしたがならず、ついに汪派と決別した。1941年(民国30年)7月、国立中央大学校長に任ぜられる。1943年(民国32年)2月、三民主義青年団第1期中央団部指導員となり、1945年(民国34年)5月には国民党第6期中央執行委員に当選した。 国共内戦の間の1948年(民国37年)2月、国民政府顧問となり、5月、行政院副院長に指名されたものの、実際には就任しなかった。1949年(民国38年)4月より香港に移り、雑誌『大道』を創刊している。後に米国カリフォルニア州に移住し、中国研究センター顧問などをつとめた。1969年(民国58年)に台湾へ移り、総統府資政となっている。 1972年(民国61年)6月25日、台北市にて病没。享年85。
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