汪兆銘南京政府樹立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:05 UTC 版)
1939年5月汪兆銘は来日し、1939年6月に平沼内閣は中国新政府樹立方針、汪工作指導要綱を発表、前年11月30日の日支新関係調整方針を和平条件とした。その後、汪兆銘は中国の各地方政府を周り、意向を打診、11月1日、上海で日本と交渉するが、日本の蒙疆、華北に防共駐屯、南京、上海、杭州にも駐屯、揚子江沿岸特定地点にも艦船部隊駐屯提案に対して汪側は太原〜石家荘〜滄州のライン以北に限定するよう日本側に大きく譲歩した上で要求するが、日本側は山東省を加えるよう要求した。12月30日、日華新関係調整要綱が成立。 1940年(昭和15年)1月、阿部内閣から米内内閣に変わった。1月6日、汪兆銘の腹心高宗武らが上海を脱出し、香港で日本の講和条件を暴露し、汪兆銘は傀儡と訴えた。これによって蔣介石の支持層が拡大した。 1月下旬 - 日本軍、賓陽作戦。 2月2日 - 日本、衆議院で斎藤隆夫議員が対中国政策を批判(反軍演説。3月7日議員除名)。 3月30日 - 汪兆銘、南京で親日政府樹立(中華民国南京国民政府)。
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