汪兆銘政府との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 15:34 UTC 版)
その後の汪兆銘工作の進展の中で、1938年12月18日、汪兆銘は重慶を脱出、蔣介石と訣別した。しかし日本側との「密約」であった「日本軍の撤兵」の約束は反故にされ、昆明・四川の中国側軍閥からも期待したような同調の動きはなく、さらに工作の中心であった近衛首相も突然辞職してしまったため、最初の構想であった「和平工作」は頓挫した。 高宗武は汪兆銘の重慶脱出をせかし、さらに汪兆銘のハノイ脱出後は汪兆銘グループの一員として行動するなど、初期から工作に関わりを持ったが、「樹立する政権は日本の傀儡になってはならない」ことを誰よりも強く主張していたのも高宗武であったと伝えられる(西園寺公一の回想による)。
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