汪兆銘政権での活動
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日中戦争(抗日戦争)勃発後の1937年(民国26年)10月、上海難民救済協会秘書長をつとめる。翌月、上海が陥落すると、租界に引きこもった。1940年(民国29年)、汪兆銘政権(南京国民政府)において、上海市商会主任委員に任ぜられた。翌年12月に日本軍が租界に入り、工部局が改組されると副総董に任ぜられ、引き続き公共租界の運営や公共事業に関わっている。また、上海基督教青年会の活動にも従事した。 1942年(民国31年)6月、上海特別市商会の成立とともに、理事長に任ぜられ、さらに大華銀行総経理も兼任した。翌1943年(民国32年)3月、全国商業統制総会理事、財政部中央儲蓄会監理委員会理事となり、9月、米糧統制委員会籌備委員会主任委員となる。また、汪兆銘政権が推進した新国民運動促進委員会でも委員をつとめ、全国物資統制審議委員会委員にもなっている。1944年(民国33年)6月、全国経済統制総会理事、米糧統制委員会主任委員に任ぜられた。
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汪兆銘政権での活動
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1940年(民国29年)3月、正式に南京国民政府が成立すると、中央政治委員会副秘書長、行政院秘書長、国民党海外党務委員会主任委員、中央儲備銀行監事に任ぜられた。翌年には、清郷委員会委員、社会行動指導委員会委員を、1942年(民国31年)には、時局策進委員会秘書長、新国民運動促進委員会常務委員をつとめた。1943年(民国32年)に国防会議副秘書となる。同年2月、敵産管理委員会委員、全国経済委員会委員をつとめた。 同年9月、陳春圃は建設部部長、中央党部組織部部長に抜擢されたが、この人事には、陳璧君の後押しがあったとされる。翌年2月、教育部部長、さらに中央党務工作人員訓練団教育長も兼任した。4月、広東省省長兼広州綏靖主任となる。12月には広東省保安司令も兼ねた。1945年(民国34年)1月に軍事委員会委員、2月に国民政府委員となる。同年4月、広東省省長から罷免された。 日本敗北後の9月、陳春圃は上海の軍統支部に自首し、上海市高等法院で審問を受けることになった。1946年(民国35年)10月、漢奸の罪で無期懲役の判決を受けている。 中華人民共和国建国後も、陳春圃は収監され続ける。1966年3月19日、上海市の監獄で病没した。享年67。
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汪兆銘政権での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/25 20:06 UTC 版)
1939年(民国28年)、趙正平は香港に移住したが、まもなく上海に戻り汪兆銘(汪精衛)の活動に参加する。同年7月に汪が開催した幹部会議にも出席した。 1940年(民国29年)3月末に南京国民政府が正式に成立すると、趙正平は初代教育部部長に任命された。その後、中央図書館館長、編訳館館長、中央政治委員会委員、清郷委員会委員、文物保管委員会委員等にも任じられる。8月、教育部部長から上海大学校長に転じている。また、各期で中央政治委員会委員をつとめた。 日本敗北後の1945年(民国34年)8月、趙正平は鎮海(現在の浙江省寧波市鎮海区)に逃亡した。しかし結局、漢奸の罪を恐れて自殺した。享年68。
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汪兆銘政権での活動
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1931年(民国20年)5月、陳中孚は許崇智の代理人として反蒋介石派の広州国民政府に参加し、政務委員会委員に任ぜられた。1935年(民国24年)、冀察政務委員会(委員長:宋哲元)が成立すると、同委員会の外交委員会主席委員に就任したが、宋と意見が合わず翌年になって辞任している。 日中戦争(抗日戦争)が勃発後の1938年(民国27年)3月、陳中孚は中華民国維新政府の行政院長梁鴻志の顧問となった。そして陳は呉佩孚を親日政府の長として擁立する活動を開始し、1939年(民国28年)には漢口に赴いて呉のための弁事処を設立するなどした。しかし肝心の呉がこの動きに乗ることを拒否したため(同年末に呉が死去)、活動は頓挫している。汪兆銘政権(南京国民政府)成立後の1941年(民国30年)5月に国民政府委員に任ぜられ、後には(汪派)国民党中央監察委員なども務めた。 汪兆銘政権崩壊後は来日して「日華親善」に従事したとされ、アジア友の会顧問も務めた。1958年5月24日に心筋梗塞のため国立東京第二病院にて死去。享年77(満75歳)。
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汪兆銘政権での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/05 15:03 UTC 版)
汪政権成立後は行政院副院長・財政部長・中央政治委員会秘書長・中央儲備銀行総裁・上海市長・上海保安司令・物資統制委員会委員長を歴任した。 汪兆銘亡き後は、陳公博が主席代理となったが、周は陰の実力者の地位を固め、「実質的な後継者」とも評される。
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