新国民運動
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新国民運動(しんこくみんうんどう)は、汪兆銘政権が1941年から1945年までに行った公民教育運動である。新生活運動の模倣であり、1941年11月の国民党六届四中全会からスタートした。同じ年の12月31日、『新国民運動綱要』が可決され、翌年の元日から発表された[1]。1942年7月1日、汪兆銘政権が新国民運動促進委員会を設立した[2][3]。
1943年は新国民運動が最も活発な年だった[4]。さらに、汪兆銘政権は新国民運動を名目に、華北政務委員会の勢力圏である華北への進出を図った[5]。しかし、新民会との主導権争いにより、新国民運動は華北にまったく浸透しなかった[6]。さらに、東亜連盟運動とも二元化していた[7]。
1945年6月、新運会は国民党中央党部に移管され、運動は収束した[8]。さらに、1945年7月、新運会の各省市分会の解散指示が出された。新国民運動は日中戦争の終戦に先立ち、完全に終焉した[9]。
出典
- ^ 堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動: 動員される民衆』149頁
- ^ 夏征农、陈至立, ed (2013). 《中国近现代史卷-大辞海》. 西安: 上海辞书. ISBN 753264071X
- ^ 民国时期中央国家机构介绍-新国民运动促进委员会, 中国第二历史档案馆网
- ^ 堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動: 動員される民衆』153頁
- ^ 堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動: 動員される民衆』173頁
- ^ 堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動: 動員される民衆』174頁
- ^ 堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動: 動員される民衆』180頁
- ^ 堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動: 動員される民衆』155頁
- ^ 堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動: 動員される民衆』284頁
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