武漢市長として
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1939年(民国28年)3月、日本軍の指示により武漢に向かい、武漢治安維持会を組織した。翌月、中華民国維新政府の下での初代武漢特別市政府市長に就任している。翌年3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、張仁蠡は引き続き武漢特別市政府市長をつとめ、さらに中国国民党中央委員に任命された。同年9月、武漢特別市政府は漢口市政府に改められたが、引き続き張が市長に留まっている。1942年(民国31年)12月、漢口市政府は漢口特別市政府に改組されたが、やはり張が市長に留任した。1943年(民国32年)、新国民運動促進制総会武漢分会委員、全国商業統総会武漢分会副委員長を兼任した。 武漢市長在任中に、張仁蠡は漢口の堤防である張公堤・長豊北垸の修築などを含む治水事業に力を注いだ。これは、かつて漢口領事館で武官を務めた経験を持つ興亜院華北連絡部部長森岡皐が、1931年と1935年に同地で水害を体験したことから張に治水事業の推進を求めたことがきっかけであった。張自身も漢奸の汚名を雪がんとして、懸命にこの事業に取り組むことになる。1940年(民国29年)5月、行政院副院長兼財政部長の周仏海が、張に塩税・煙酒税・煙土税の50%を上納するよう要求してきたが、治水事業を重視する張はこれを拒否した。この張の治水事業の成果については、現在でも漢口では高く評価されている。 同年10月、漢口特別市が湖北省管轄の普通市に格下げされたことに伴い、張仁蠡は天津特別市市長へ異動した。また、華北政務委員会委員も兼任している。1945年(民国34年)2月、天津市長から退いている。
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