武漢大学での活動とは? わかりやすく解説

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武漢大学での活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 16:02 UTC 版)

周鯁生」の記事における「武漢大学での活動」の解説

1929年民国18年9月、周鯁生は武漢大学招聘され教授となる。武漢大学でも国際法外交史研究取り組んで国際法大綱』、『近代欧洲外交史』などの著書刊行し、『東方雑誌』などの雑誌でも論文次々と発表した1931年民国20年)の満州事変九・一八事変)が勃発、その翌年10月国際連盟派遣したリットン調査団報告書公表すると、周鯁生は「東省事件国際連盟」と題した論文発表したその中で周は、リットン調査団報告書イギリス・フランスなどの強国都合が良いように取りまとめられたものであり、日本に対して無力な国際連盟中国国民失望している旨を記述し調査団厳しく批判した翌年には、「いわゆる満州国承認問題について」という論文発表している。 1935年民国24年1月、周鯁生は武漢大学法科研究所主任昇進し10月には同大法律主任となった翌年同大教務長を兼任している。1939年からは数年わたってアメリカ研究赴いた1945年4月国際連合創設のためのサンフランシスコ会議中国代表顧問として参加している。同年夏に周は帰国し武漢大学校長任命された。まもなく国共内戦勃発すると、周はこれに反対する姿勢示し、反内戦学生運動にも同情理解示している。 中華人民共和国建国後も、周鯁生はそのまま武漢大学校長地位留められている。その他にも、中南軍政委員会委員文教委員会副主任に任ぜられた。その後外交部顧問外交学会副会長全国人民代表大会代表(第1~3期)、第3期全人代法案委員会副主任委員歴任している。1956年中国共産党に加入した。 1971年4月20日北京市にて病没享年83(満82歳)。

※この「武漢大学での活動」の解説は、「周鯁生」の解説の一部です。
「武漢大学での活動」を含む「周鯁生」の記事については、「周鯁生」の概要を参照ください。

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