周仏海側近として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/13 23:07 UTC 版)
1938年(民国27年)2月、羅君強は、周仏海が組織した芸文研究会に加入する。翌年2月、重慶から香港へ向かった。以後、羅は周の側近と目されるようになる。8月、上海へ移動して汪兆銘(汪精衛)と合流し、その下で国民党中央執行委員兼中央党部副秘書長(以後、この地位を4期務めた)に就任した。12月、陸軍軍官訓練団政訓処処長になる。 1940年(民国29年)3月、正式に南京国民政府が成立すると、羅君強は中央政治委員会副秘書長兼辺疆委員会委員長となった。7月には税警学校幹部訓練班弁公庁主任となり、周のために、事実上の軍事組織である「税警団」を創設した。翌年8月、社会行動指導委員会委員となる。また、南京の『中報』、上海の『平報』の2新聞社で社長となった。 1942年(民国31年)3月、司法行政部部長に任命された。1943年(民国32年)1月、最高国防会議秘書長に任じられる。翌月には新国民運動促進委員会委員となる。3月、中央税警総団中将総団長に任命された。12月、安徽省省長に任じられ、翌年9月には同省党部主任委員なども兼ねている。1945年(民国34年)1月、上海市長となった周仏海の下で秘書長に転じる。代理警察局局長、財政局局長などの市政府の要職も兼任した。 日本敗北後の8月19日、蒋介石の命令により周仏海が上海行動総隊司令部を創設し、総指揮に就任すると、羅君強は副総指揮となり、上海の治安維持を請け負った。しかし、9月30日に羅は逮捕され、1947年(民国36年)3月、漢奸として無期懲役の判決を受けた。 羅君強は、中華人民共和国成立後もそのまま収監され続けている。1970年2月22日、上海市の監獄で病没した。享年69。
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