蔡培とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 蔡培の意味・解説 

蔡培

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/19 02:39 UTC 版)

蔡 培
Cai Pei
『最新支那要人伝』1941年
生年月日 1884年
出生地 江蘇省常州府無錫県
(現:無錫市
没年月日 1960年(77歳没)
死没地 中華人民共和国 上海市
所属政党 中国国民党
中国国民党 (汪兆銘政権)

在任期間 1940年6月 - 1942年1月
テンプレートを表示
蔡培
職業: 政治家・外交官
各種表記
繁体字 蔡 培
簡体字 蔡 培
拼音 Cài Péi
ラテン字 Ts'ai P'ei
和名表記: さい ばい
発音転記: ツァイ ペイ
テンプレートを表示

蔡 培(さい ばい、1884年光緒10年〉 - 1960年)は、中華民国の政治家・外交官。南京国民政府(汪兆銘政権)で南京市長、駐日大使などを務めた。子平

事跡

清末に日本に留学する。1912年民国元年・明治45年)に早稲田大学専門部法律科を卒業し、併せて法学士称号を取得した[1]。帰国後は、柳亜子らが組織した南社に所属し、衆議院議員にもなった。1928年民国17年)1月、国民政府交通部秘書となる。6月、参事となった。1930年(民国19年)1月、交通部航政司司長となる。1935年(民国24年)8月、内政部民政司司長に異動した。

1940年(民国29年)3月、汪兆銘南京国民政府を組織すると、蔡培は工商部政務次長に任命された。6月、南京特別市市長に任命される。翌年12月、糧食管理委員会委員長に異動した。以後、行政院政務委員、国民政府政務参賛を歴任する。1943年(民国32年)3月、駐日大使となった。1945年(民国34年)5月、大使から退き、帰国して国民政府委員となった。

日本敗北後の9月、蔡培は漢奸として逮捕され、上海提藍橋監獄に収監された。1946年(民国35年)7月、上海高等法院で蔡培は「中日親善」を推進したなどの罪により死刑を言い渡される。上告後の翌年11月に、最高法院で無期懲役に減刑された。中華人民共和国建国後も引き続き上海で収監された。1956年8月、医療を付される。

1960年、病没。享年77。

  1. ^ 早稲田大学校友会(1934)、320頁。

参考文献

  中華民国汪兆銘政権
先代
高冠吾
南京特別市長
1940年6月 - 1942年1月
次代
周学昌



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「蔡培」の関連用語

蔡培のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蔡培のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの蔡培 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS