「台湾同化会」への加入から「台湾文化協会」への加入まで
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1907年(明治40年)、台湾総督府国語学校師範部に入学し、1910年(明治43年)に卒業すると公学校で教員を務めた。1914年(大正3年)12月20日成立の「台湾同化会」に加わり、「ローマ字運動」を推進した。「ローマ字運動」とは、キリスト教長老会が布教のため使っていた福佬語のローマ字表記法を民衆啓蒙のため普及させようとする運動である。「台湾同化会」は、台湾総督府の強い圧力により、翌1915年(大正4年)1月26日には解散させられたので、蔡培火も教職を離れることを迫られた。その後、親友の林献堂の資金援助によって日本に留学し、東京高等師範学校理科第二部(物理化学科)に合格する。これは台湾人による日本の大学・専門学校入学の第一号だった。1919年(大正8年)、蔡培火の奔走で、東京にいる台湾人留学生を中心に「啓発会」が発足した。「啓発会」は、「六三法」の撤廃を目標としたが、資金難等のため、「新民会」に発展的に解消した。1920年(大正9年)の帰国後、1920年(大正9年)以降始まる「台湾議会設置請願運動」に参加した。また、1921年(大正10年)蒋渭水が提唱し、林献堂が先頭に立って青年学生を結集して「台湾文化協会」が結成されると、これに加入した。さらに、「台湾民報」の創立にも協力した。
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