「台湾光復」と台湾の「脱日本化」
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「台湾光復」の記事における「「台湾光復」と台湾の「脱日本化」」の解説
日清戦争によって日本に割譲された際の「祖国」は清朝であったが、満州族の王朝であった清朝と比べれば「復興中国」を掲げ、異民族王朝を転覆させて成立した中華民国は、異なる国家体制であっても台湾の人口の大半を占める漢民族にとっては清朝よりも「祖国」と呼ぶに相応しい国家であった。日本統治下の台湾ではその「祖国」に対する憧憬から少なからぬ台湾人が中国に留学し、また五四新文化運動が台湾内での文化動向に大きな影響を与えていた経緯もあり、少なくとも台湾の漢民族にとっては、祖国とは「中華民国」のことであった。したがって「光復」後の台湾において「脱日本化」と「祖国化」(中国化)が文化政策の絶対目標であり、最優先の課題であることに問題の余地はなかった。「光復」によって、台湾では様々な新旧交代が行われ、日本への割譲以来、再び全島規模において別離と出会いが錯綜した。日本軍は武装解除され、留任を命じられた者以外は、引き揚げの準備に追われた。台湾で生まれ育った日本人にとってみれば、祖国・日本への帰還とは見知らぬ異国への移住同然でもあった。一方で大陸からは国民党の「台湾支部」である「国民党台湾省執行委員会」が福建省から台湾に移転してきたのをはじめとして、「祖国同胞」であり、かつ新しい統治者である外省人や「半山」台湾人の政府関係者が続々と来台してきた。台湾の接収に際して、国民党は日本が無条件降伏する前の1944年4月17日に「台湾調査委員会」を組織して接収工作の準備を進めていたが、長年の間台湾を統治してきた台湾総督府に代わって、台湾の新たな統治機関として設置されたのが「台湾省行政長官公署」であった。 行政長官公署は、「祖国」へ復帰した台湾から日本的色彩を排除するために次々と「脱日本化」の処理を打ち出した。まず変更が求められたのが、「名称」であった。1945年11月17日には、「台湾省各県市街道名称改正辨法」が制定され、各県市の政府成立後2か月以内に、「甲;日本の人物を記念する名称」(明治町・大正町・児玉町・乃木町など)、「乙;日本の国威を宣揚する名称」(大和町・朝日町など)、「丙;明らかに日本名である名称」(梅ヶ枝町・若松町・旭町など)を「甲;中華民族精神を発揚する名称」(中華路・信義路・和平路など)、「乙;三民主義を宣伝する名称」(三民路・民権路・民族路・民生路など)、「丙;国家の偉大な人物を記念する名称」(中山路・中正路など)に変更することが定められた。続いて翌12月には、「台湾省人民回復原姓名辨法」が公布され、皇民化運動で日本名に変更した者の名前の「祖国化」が図られた。原住民に至っては、中国名を自身で選び届け出ることとされ、日本統治時代の「高砂族」が「高山族」に改められると同時に、「土蕃・蕃族・蛮族」といった差別的呼称の使用禁止が通達された。
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