「台湾文化協会」の設立と発展とは? わかりやすく解説

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「台湾文化協会」の設立と発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 00:35 UTC 版)

日本統治下の台湾における台湾人政治運動」の記事における「「台湾文化協会」の設立と発展」の解説

蔣渭水提唱し林献堂先頭立って青年学生結集し、「台湾文化協会」が1921年10月17日設立された。同年11月30日発足総会において、医師でもある蔣渭水は、自身主治医台湾患者見立てた台湾診断書」と称する演説残している。すなわち「台湾人は今病気かかっている。その病とは知識栄養不足症である。文化運動のみがこの病の唯一の治療薬である。文化協会研究重ねて治療を施す機関である。」と述べている。同協会の設立趣旨がよく表れている演説である。蔣による『診断書』の具体的な内容は、以下のとおりである。 患者台湾 本籍中国福建省台湾道 現住所日本帝国台湾総督府 血統明らかに黄帝周公孔子孟子血筋 素質前述聖人末裔故に強健かつ天性聡明 既往症幼年期鄭成功時代)には身体すこぶる頑健頭脳明晰意志強固品性高尚技量卓抜清朝期政策による害毒犯され身体次第衰弱し意志薄弱品性下劣節操低下日本支配下になりいくぶん回復現在の症状道徳退廃人心不純物欲旺盛精神生活貧困中略)。 処方正規学校教育最大量、補助的教育最大量、図書館最大量、新聞購読最大量。 台湾文化協会本来の目的文化的啓蒙政治運動になかった。しかし、前述「台湾議会設置請願運動」主導的な役割果たした。「台湾文化協会がもっと影響力及ぼした活動が、1923年大正12年)から1927年昭和2年)まで行われた文化講演であり、1年間300余り開催され聴衆11万人及んだ。このほか1924年大正13年)から3年間にわたり林献堂菜園夏季学校開かれた1923年大正12年)からは台湾にも治安維持法適用されており、文化講演厳し日本人官憲監視取締の下で行われた。しかし、この監視取締がかえって台湾人意識を向上させた。その結果台湾文化協会には、台湾人民族運動あらゆる勢力結集することになる。ところが、皮肉にもあらゆる勢力結集したことが、分裂生じさせた。また、1921年中国共産党成立1922年大正11年)の日本共産党成立見られるような社会主義共産主義高揚階級闘争台頭という世界的な影響台湾文化協会内の路線対立激しくさせた。そこで、1927年昭和2年1月台湾文化協会台中市臨時党大会開き左右両派は正式に分裂した左派連温卿協会運営中心となり、右派で重要幹部だった林献堂蔡培火蔣渭水らは、中央委員の職を辞することになった

※この「「台湾文化協会」の設立と発展」の解説は、「日本統治下の台湾における台湾人政治運動」の解説の一部です。
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