「台湾文化協会」の設立と発展
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「日本統治下の台湾における台湾人政治運動」の記事における「「台湾文化協会」の設立と発展」の解説
蔣渭水が提唱し、林献堂が先頭に立って青年学生を結集し、「台湾文化協会」が1921年10月17日に設立された。同年11月30日の発足総会において、医師でもある蔣渭水は、自身を主治医、台湾を患者に見立てた「台湾診断書」と称する演説を残している。すなわち「台湾人は今病気にかかっている。その病とは知識の栄養不足症である。文化運動のみがこの病の唯一の治療薬である。文化協会は研究を重ねて治療を施す機関である。」と述べている。同協会の設立趣旨がよく表れている演説である。蔣による『診断書』の具体的な内容は、以下のとおりである。 患者:台湾 本籍:中国福建省台湾道 現住所:日本帝国台湾総督府 血統:明らかに黄帝、周公、孔子、孟子の血筋 素質:前述の聖人の末裔故に強健かつ天性聡明 既往症:幼年期(鄭成功時代)には身体すこぶる頑健、頭脳明晰、意志強固、品性高尚、技量卓抜。清朝期に政策による害毒に犯され、身体次第に衰弱し、意志薄弱、品性下劣、節操低下。日本支配下になりいくぶん回復。 現在の症状:道徳退廃、人心不純、物欲旺盛、精神生活貧困(中略)。 処方:正規学校教育=最大量、補助的教育=最大量、図書館=最大量、新聞購読=最大量。 台湾文化協会の本来の目的は文化的啓蒙で政治運動になかった。しかし、前述の「台湾議会設置請願運動」の主導的な役割も果たした。「台湾文化協会」がもっとも影響力を及ぼした活動が、1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)まで行われた文化講演であり、1年間に300回余り開催され、聴衆は11万人に及んだ。このほか1924年(大正13年)から3年間にわたり林献堂の菜園で夏季学校も開かれた。1923年(大正12年)からは台湾にも治安維持法が適用されており、文化講演も厳しい日本人官憲の監視と取締の下で行われた。しかし、この監視と取締がかえって台湾人意識を向上させた。その結果、台湾文化協会には、台湾人の民族運動のあらゆる勢力が結集することになる。ところが、皮肉にもあらゆる勢力が結集したことが、分裂の芽を生じさせた。また、1921年の中国共産党の成立、1922年(大正11年)の日本共産党の成立に見られるような社会主義・共産主義の高揚や階級闘争の台頭という世界的な影響も台湾文化協会内の路線対立を激しくさせた。そこで、1927年(昭和2年)1月に台湾文化協会は台中市で臨時党大会を開き、左右両派は正式に分裂した。左派の連温卿が協会運営の中心となり、右派で重要幹部だった林献堂、蔡培火、蔣渭水らは、中央委員の職を辞することになった。
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