「台湾籍民」を巡る歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/08 08:50 UTC 版)
この自然流出的な人の流れは、1900年初頭ごろから記録にあらわれる。1909年(明治42年)初代駐バタビア(現ジャカルタ)領事として赴任した染谷成章の最初の仕事が「台湾籍民」の法的地位を日本人と同等に引き上げることであった。当時領事館に登録された台湾人はわずか30名ほどだった。紆余曲折を経て1910年11月、蘭領東インド当局との間で法的解決をみた。「台湾籍民」に日本人と同等の法的地位が認められたことで、台湾から新規の渡航者の増加が認められた。彼らは言語、挙動、服装に至るまで中国人と同様で、しかも中国人の家に寄宿しているのにもかかわらず日本人と同様の待遇(特権)を得ることになった。続いて同じく蘭領東インドの華人は、これまで第二級の法的地位にとどめ置かれていたが、清国政府の支援を得つつ当局と交渉を重ねた結果、1911年5月、日本人そして「台湾籍民」と同様の法的地位を得るに至った。そして南方他地域でも、この解決策を参考に同様の解決がされることになったのである。
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