蔡和安
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/08 00:36 UTC 版)
蔡和安(英:Chua Ho Ann 日本語読み:チュア ホーアン、生年不詳 - 1976年11月7日)は、シンガポールの実業家・慈善家にして、シンガポール最大の私会党の関係者。若くして福建省漳浦県からシンガポールへ渡り、クルマエビの養殖や炭焼きなどの事業に成功して西海岸の有力者となる。1942年2月からの日本軍による占領期間中は、波機関、茨木機関などの日本の特務機関に協力して慈善団体「黒十字会」を組織し、米などの密貿易に携わって利益を得る一方で、秘かにプロテスタント教会や博物館・植物園への資金援助を行っていたとされる。戦後は林有福とシンガポール連盟党(SAP)を支援し、1959年の選挙で人民行動党(PAP)運動員への暴行事件を指揮したとしてリー・クアンユーによって逮捕・投獄され、その釈放を巡るリーとラーマンの対立は1965年のシンガポールの分離独立の一因となった。直情型で、自分を頼って来る困っている人には誰にでも救いの手を差し伸べる義理堅い性格の人物として知られた。[1]
- ^ この記事の主な出典は、リー (2000, p. 各頁)、中西 (1994, p. 各頁)、本田 (1988, p. 各頁)、コーナー (1982, p. 各頁)、篠崎 (1981)および南洋商報各日版。
- ^ a b c d 南洋商報 & 1976-11-08.
- ^ 現存しない(コーナー 1982, p. 94)。Pandan Gardensも参照。
- ^ a b コーナー 1982, p. 94.
- ^ 篠崎 1981, p. 50.
- ^ a b 篠崎 & 1972-08-29.
- ^ 茶園 1995, p. 28.
- ^ 編注:未詳
- ^ 篠崎 1981, p. 51.
- ^ 篠崎 & 1972-09-04.
- ^ 篠崎 & 1972-09-02.
- ^ コーナー 1982, p. 95.
- ^ a b 中西 1994, p. 139.
- ^ 本田 1988, p. 41.
- ^ 黒十字会は、表面的には親日団体だったが、所属している有力な華僑やユーラシアンは必ずしも親日的であったわけではなく、日本側もむしろ反日分子を集約することを目的として組織を作らせていた面もあったとされる(本田 1988, p. 42)
- ^ 本田 1988, pp. 42–43.
- ^ 本田 1988, p. 43.
- ^ コーナー (1982, pp. 95–96)。コーナーが資金が必要になったとき、蔡から教えられたクロス街の家に電話をして面識のない男性に伝言をすると、蔡がコーナーを訪問して、秘かに直接資金を手渡していた(同)。あるとき、蔡とコーナーが面会しているときに刑事に踏み込まれたことがあり、そのとき蔡は「自分は憲兵の命令で白人を監視しているのだ」と言って刑事を威圧し、騙して帰したとされる(同)。「彼があんな大胆なことをするのを見たのは、あれが最初で最後であった」(同)。
- ^ コーナー 1982, p. 161.
- ^ コーナーは蔡の商才に舌を巻いた、としている(同)。
- ^ コーナー 1982, pp. 96–97.
- ^ コーナー (1982, p. 97)。コーナーは、蔡が商売上手だったために日本軍との関係を疑われたが、「虎を捕えようとしてねずみを見つけたようなものだった」としている(同)。
- ^ 本田 1988, pp. 93–94, 172.
- ^ 中西 1994, p. 203.
- ^ 篠崎 (1981, pp. 51–52)では、英軍野戦保安隊に引取られて拘留されていた、としている。
- ^ 中西 1994, pp. 203–205.
- ^ 篠崎 (1981, pp. 51–52)。1951年のサンフランシスコ講和条約締結後、蔡は日本を訪問し、東京で篠崎や茨木機関の石島元少佐、浪機関の吉永元大尉らと再会したとされる(篠崎 1981, p. 54)
- ^ リー 2000, p. 315.
- ^ リー 2000, pp. 327, 339.
- ^ 南洋商報 & 1976-11-11。編注:「積閏」は満年齢に3歳加算している可能性がある。
- ^ a b 南洋商報 & 1976-11-11.
- ^ 本田 1988, p. 42.
- ^ 南洋商報 & 1971-12-06.
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