ジュロン湿地事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/14 15:47 UTC 版)
コーナー (1982, p. 94)によると、1942年2月のシンガポール陥落後、蔡は日本軍に逮捕されて数日間収監され、家族はマングローブ林の中に隠れて日本軍の捜索を逃れた。 篠崎 (1981, p. 50)および篠崎 (1972-08-29)によると、1942年2月の日本軍によるシンガポール占領直後、蔡がカトン(英語版)の弾薬集積所の近くを通りがかったときにたまたま弾薬集積所で爆発がおき、蔡は駆けつけた憲兵隊に逮捕され、東洋ホテルにあった憲兵隊・横田分隊の臨時本部に連行された。そのとき東洋ホテルにいた篠崎は、中国人のコックから蔡がシンガポール西海岸の有力者で、儒教を信奉する南洋聖教総会のメンバーであると聞き、蔡を釈放させた。篠崎はそれ以来蔡と親交があったとしている。 またシンガポール華僑粛清事件の際の篠崎の宣誓供述書によると、1942年2月末に、シンガポールの西海岸一帯の中国系住民の女性・子供ら約350人が、シンガポール市の西部地区を所管した日本軍(第5師団)の福本部隊の指示を受けたマレー系住民の集団によってジュロンの湿地帯に追いやられて3日ほど軟禁され、3-4名が満潮時に溺死するという事件があり、連絡を受けた篠崎が現場に到着するとマレー人は包囲を解いたとされ、蔡は事件の詳細を知る人物とされている。篠崎 (1981, p. 50)では、包囲されていた住民の中に蔡の家族が含まれており、篠崎に助けを求めにきたのは蔡だったとし、事件以来、蔡は篠崎に湿地で獲れたエビや魚を届け、また篠崎に相談や頼み事をするなど、篠崎は蔡と親しくなった、としている。 篠崎は、蔡らからの依頼で、カリムン島(英語版)に潜伏していたところを水上憲兵隊に捕えられ、拷問を受けていた李振殿や黄慶昌の釈放を働きかけたとしている。
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