歴史的な治療法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 04:59 UTC 版)
梅毒の患者には多数の治療法が試みられたが、梅毒に効果的なものは存在しなかった。この病気がヨーロッパに現れて間もない段階では、非効果的で危険な治療法が多く用いられた。治療の目的は病気を引き起こす外来性の物質を体外に排出することであり、瀉血、下剤の使用、ワインやハーブ、オリーブ油への入浴などが行われた。 水銀は最も広く、そして長く用いられ続けた梅毒の治療法であり、ペルシアの医師イブン・スィーナーによる『医学典範』 (1025) にまで遡るとされる (ただしこれはコロンブス以前の旧世界に梅毒が存在した場合、である)。 水銀による治療の最初の支持者の1人はパラケルススであり、当時梅毒と関連があるとされていたハンセン病に対して水銀を用いたアラブの治療法が有効であるとされていたため、こうした治療を用いたと考えられる。 ヴェローナの Giorgio Sommariva が1496年に梅毒の治療に水銀を用いたことが記録されており、この治療法を用いた最初の医師とされることも多いが、彼は医師ではなかった可能性もある。16世紀の間、肌にこする、膏薬として塗る、または口から、といった様々な方法で、水銀は梅毒の患者に投与された。 「燻蒸」による投与も行われた。この方法では水銀は火にかけて気化され、患者は熱せられた石炭の上に置かれた穴の開いた椅子に座るか、箱に入って頭だけを出すかの方法で水銀の蒸気を浴びた。 水銀による治療の目的は、患者の流涎を促すことであり、それによって病気が排出されると考えられていた。水銀による治療には、歯肉の潰瘍や歯の喪失などの不快な副作用があった。水銀は数世紀にわたって梅毒の治療に用いられ続け、1869年の論文で T. J. Walker は水銀の注射について議論している。 グアヤク脂 (ユソウボクの樹脂) は16世紀に人気のあった治療法であり、ウルリヒ・フォン・フッテンらによって強く唱えられた。グアヤク脂はコロンブスが上陸したイスパニョーラ島に由来するものであったため、コロンブス説の支持者たちは、神は病気の起源と同じ場所に治療法をもたらしたのだと主張した。 スペインの司祭 Francisco Delicado は、彼自身も梅毒に苦しんでいたが、1525年に「西インド諸島からの木材の利用の方法」(El modo de adoperare el legno de India occidentale) を著し、梅毒の治療へのグアヤク脂の利用について議論した。グアヤク脂は水銀のような不快な副作用はなかったが、短期的効果を除けば特に有効であるともいえず、水銀の方がより効果的であると考えられていた。何人かの医師たちは、患者に水銀とグアヤク脂の両方を使い続けた。 1522年以降、Blatterhaus (アウクスブルクの貧しい梅毒患者のための市立病院)では、最初の治療としてグアヤク脂のホットドリンクが投与され、その後は発汗療法が行われた。そして最後の治療手段として水銀が用いられた。 16世紀の他の治療法としてはイタリアの医師 Antonio Musa Brassavola によって提唱された、「中国の根」(Root of China、サルトリイバラ Smilax chinaの根) の経口投与が挙げられる。17世紀には、イングランドの医師で薬草学者ニコラス・カルペパー(英語版)がサンシキスミレ (野生のパンジー) の使用を推奨した。 効果的な治療法が現れる以前は、梅毒の長期的な影響によって顔や鼻に欠陥が生じ ("nasal collapse")、容貌が損なわれることがあった。梅毒は性行為によって伝染するため非難の対象となる病であり、こうした欠陥は社会ののけ者、性的逸脱の象徴の烙印となった。この欠陥に対し、見た目を良くするために人工の鼻が用いられることもあった。 16世紀の顔面外科の医師ガスパーレ・タグリアコッチ(英語版)による先駆的業績は、鼻の欠陥の外科的修復の最初期の試みとして記録されている。遊離皮弁法(英語版)(フリー・フラップ) が発明される前は、血流が皮弁の生存を決定する必須の因子であったため、移植に用いることができるのは欠陥に近接した局所的な組織だけであった。タグリアゴッチの技術は、腕から血管がつながった状態で鼻へ組織を移植することであった。患者は、腕からの組織の移植後、移植部位で新たな血管が発達するまでは、腕を顔のところへ縛り付けたままにしておく必要があった。そして、2度目の手術によって皮弁は腕から分離された[要出典]。 梅毒の病気の理解が進むにつれ、より効果的な治療法が現れるようになった。 ノーベル賞受賞者パウル・エールリヒの研究室の秦佐八郎によって、有機ヒ素化合物の抗菌薬サルバルサンが1908年に開発され、梅毒の治療に用いられた。このグループは後に、より毒性の低いヒ素化合物、ネオサルバルサンを発見した。 時として、高熱を出した患者の梅毒が治癒することがあることが観察された[誰によって?]。そのため、持続した高熱を引き起こすマラリアが第3期梅毒の治療のために短期間用いられた(一種の発熱療法(英語版))。マラリアはキニーネによって治療することが可能であったので、マラリアへの感染は受容されるリスクであると考えられていた。 マラリアによる治療はたいていは末期の治療、特に神経梅毒まで進行した際に行われ、サルバルサンかネオサルバルサンによる補助的治療が続いた。このマラリア療法はユリウス・ワーグナー=ヤウレックによって支持され、彼は神経梅毒の治療におけるマラリア接種の治療的価値を発見したことで1927年のノーベル生理学・医学賞を受賞した。後に、高温のキャビネット (発汗ボックス) が同じ目的のために用いられた。これらの治療法は、最終的にペニシリンの発見によって時代遅れなものとなった。第二次世界大戦後ペニシリンが大量生産されるようになり、梅毒は効果的かつ確実に治療されるようになった。
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