歴史的な用例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 03:55 UTC 版)
「デリー/ロンドンデリー名称論争」の記事における「歴史的な用例」の解説
1960年代後半に北アイルランド問題が発生するまで、この地名の問題は今日のように論争の的となることはなかった。「ロンドンデリー」が公式、正式の名称であっても、北アイルランドにいるほとんどの人々は、非公式の場面ではこの町を「デリー」と呼んでいた。しかし、セクト主義的な対立の緊張が増していくと、この町の名称は、人々を判別するシボレテ(ためし言葉)(Shibboleth) となった。サミュエル・ルイス (Samuel Lewis) が1837年に出版した『アイルランド地名辞典 (Topographical Dictionary of Ireland)』 は、「この町はもともと、また、現在でも広くデリーと呼ばれており...英語に由来する接頭辞ロンドンが付けられたのは1613年で...長きにわたって入植者たちによって維持されてきたが、...今では広くは使われていない」と記していた。 1837年の『ロンドンデリー州の測量 (Ordnance survey of the county of Londonderry)』も同様の見解を記し、「このような省略は、地名がはっきりと別個の、簡単に分離できる2つの単語から構成されているときには、アイルランドでは一般的に行なわれ、...キャリックファーガス (Carrickfergus) は「キャリック Carrick」に、ダウンパトリック (Downpatrick) は「ダウン Down」に、... などと短縮される」と述べている。 1885年議席再配分法 (Redistribution of Seats Act 1885) により、それまでウェストミンスターの議会(イギリスの国会)に議員を2議席送っていたロンドンデリー選挙区 (Westminster constituency of Londonderry) は分割され、2つの小選挙区が設けられた。その際、フランク・ヒュー・オドネル (Frank Hugh O'Donnell) は、新たな選挙区名に「ロンドンデリー」ではなく「デリー」を用いることを修正案として提案し、「ロンドンの諸カンパニーがデリーについての諸利権の維持を絶望視しているこの時代にあって、議会はこの修正案を受け入れるべきである。この修正は、問題の州を常々デリーと呼びロンドンデリーとは呼んでいない、アイルランドの北部において歓迎されるだろう」と述べた。この修正案は、州を単位とする選挙区の名称は州の正式名称と一致していなければならない、として否決された。しかし、次にティモシー・マイケル・ヒーリー (Timothy Michael Healy) が、州名は維持した上で、分区名を変えるという修正案を出した。つまり、ロンドンデリー(北デリー分区)選挙区 (Londonderry (North Derry division) ) とロンドンデリー(南デリー分区)選挙区 (Londonderry (South Derry division) ) にするという提案である。この修正案に唯ひとり反対したデイヴィッド・プランケット (David Plunket) は、「ロンドンデリー市はデリーともロンドンデリーとも呼ばれている。デリーという名称が用いられるのは、州の中の一部を取り分けで言及する場合である」と述べた。 1958年、新造のロスシー級フリゲート艦ロンドンデリー (HMS Londonderry) がロンドンデリーの港に表敬訪問寄港を行なった際、ナショナリストの市議会議員ジェームズ・ドハティ (James Doherty) は、「この町の別名にちなんで名付けられた外国の戦艦」にすぎないとして抗議を表明した。 1984年、民主統一党 (DUP) の政治家ピーター・ロビンソン (Peter Robinson) は、庶民院における1984年歳出(北アイルランド)命令 (Appropriation (Northern Ireland) Order 1984) の審議の中で次のように述べた。「1960年代までは、デリーもロンドンデリーも気楽に使うことができました。私はデリー徒弟少年団 (Apprentice Boys of Derry) という(プロテスタント系の友愛団体)組織の一員でしたが、この(デリーという名称を含んだ)名称は誇りでありました。プロテスタント、ユニオニスト、ロイヤリスト (Loyalists、忠誠派)でも、当地出身者であれば自分たちを「デリーメン Derrymen」と呼んだものでした。それは、誰かを興奮させてしまうようなことではなく、誰かのことをデリー出身だと言うことも、攻撃的な言葉と取られるようなものではありませんでした。やがて、1960年代にロンドンとの結びつきを弱めようとする共和派の意図的なキャンペーンの一環として、都市名から「ロンドン」を削り落とすことが強調されるようになったのです。その結果、ユニオニストのコミュニティでは、名称の「ロンドン」の部分を強調するようになっていきました」。
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