「ヴェンド人」の歴史的変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 14:19 UTC 版)
「ヴェンド人」の記事における「「ヴェンド人」の歴史的変遷」の解説
ゲルマン人は当初これを古代ヴェネト人(英: Veneti)に対して使っていたが、民族移動時代の後は新たに東隣になったスラヴ人に転用したと考えられる。 「en:Vistula Veneti#Relation between Veneti and Slavs」および「en:Relation between Veneti and Slavs」も参照 中世のスカンディナヴィア人にとって「ヴェンド人」はバルト海の南岸から来るスラヴ人のことであり、オボトリート族(英: Obotrites)やルギアのラーン人、ポメラニア人(英: Pomeranians)などのポラーブ諸語を話すスラヴ人を言及する際に用いられた。 中世の神聖ローマ帝国北部に住んでいたか、あるいはそれ以前に住んでいた人々、特にサクソン人にとって「ヴェンド人」はオーデル川流域の西側に住むスラヴ人だった。しかしポラーブ系スラヴ諸部族が居住するようになると、その地域はゲルマニア・スラヴィカ(Germania Slavica)と呼ばれるようになり、「ヴェンド人」は北に居住した前述の部族や南に居住したソルブ人やミルツェン人(英: Milceni)などを言及するのに用いられるようになった。 南部に住むドイツ人は北部に住むドイツ人が用いた「ヴェンデ人」の代わりに「ヴィンデ人」を彼らと接触があったポラーブ人やバイエルン地方のスラヴ人、スロヴェニア人などを差すのに使った。ヴィンディッシュ辺境伯 (英: Windic march) やドイツ語でスロヴェンスカ・ビストリツァを指す「ヴィンディシュ・ファイストリッツ」はこうした歴史的な用例を証明している。 8世紀以降、ヴェンド人の住む土地はほとんどフランク人の王やその後継者たちの武力行使により王国に組み込まれた。12世紀にはヴェンド人の土地は神聖ローマ帝国の一部となった。また12世紀から14世紀にかけてピークを迎えた東方植民(独: Ostsiedlung)によりドイツ人がヴェンド人の土地に定住したが、それは「ヴェンド人」の定義の再編を意味した。この時にヴェンド人は帝国内でスラブ語を話す少数民族を指すようになった。その一方でポーランド人やチェコ人など新しい境界の東に住むものはそう呼ばれなかった。スラヴ人の多くはドイツに同化するの過程でドイツ人と混血したり文化や言語を取り入れたりした。ドイツ人とあまり交わらず西スラヴ語群を使い続けた一部の地方のコミュニティだけが依然としてヴェンド人と呼ばれた。 ヴェンド人は現在のドイツ東部ラウジッツ地方のソルブ人とポーランド北部ポメラニア地方のカシューブ人だけになったが、彼らも今ではヴェンド人というよりも、むしろソルブ人、カシューブ人と呼ばれるのが適当である。
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