「一と二分の一」の確定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:37 UTC 版)
「55年体制」の記事における「「一と二分の一」の確定」の解説
自由民主党は押し付け憲法論を主張、自主憲法制定を党是に定めた。1958年(昭和33年)の総選挙では互いに過半数にのぼる候補を立て、真っ向から争った。投票率76.99%は男女普通選挙になってからでは最高の記録であり、二大政党制への国民の関心の高まりを示したものといえた。その結果、定数467で自由民主党287議席(他、追加公認11)、日本社会党166議席(他、追加公認1)となり、二大政党の公認候補だけで全体の97%の議席を占めた。これは総選挙最高峰の記録である。しかし、議席数は追加公認を含めると、自由民主党が1議席を減らしただけの圧勝であり、日本社会党は7議席を増やしたものの、護憲に必要な3分の1の議席を確保したに留まった。 このように、二大政党制といっても国会の議席数では自由民主党と日本社会党の勢力比は2:1であった。そのため、「一と二分の一政党制(一か二分の一政党制)」とも呼ばれる。この保守と革新の“2:1”の比率は、保守分裂のため社会党が第1党になった1947年(昭和22年)の総選挙の時点で既に現れていた。 55年体制は、自由民主党から日本社会党への政権交代が実現できない一方、保守政党は国会で憲法改正のための3分の2以上の議席を確保できなかったことから、政権交代と憲法改正のない体制とされる。 戦後暫くは、いわゆる諸派・ミニ政党がしばしば議席を獲得していた。しかし55年体制が久しくなると、参議院で一時的にミニ政党が進出した時期もあるが、衆議院で議席を獲得することはほとんどなくなった。
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