橋蔵平次誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:16 UTC 版)
「銭形平次 (大川橋蔵)」の記事における「橋蔵平次誕生」の解説
本作はフジテレビと東映(東映京都テレビ・プロダクション)の共同製作で、撮影は東映京都撮影所(以下、東映京都)で行われた。これは橋蔵が出演オファーを受けたとき、東映との専属契約が切れたままの状態だったが、出演を引き受ける際の条件の一つとして「気心の知れた東映京都の仲間となら」という条件を出したためで、東映京都テレビ・プロがスタッフを引き受ける形で同所で撮影が行われることになった。最初の平次の女房・お静役だった八千草薫は出演契約が1年の予定だったが長く続いたため、2年半経ったとき「東京から週5日も京都に来ていては他の仕事が出来ない」と番組降板を申し入れた。 東映は1964年2月に東映京都撮影所所長に復帰した岡田茂が、大川博東映社長から東映京都の合理化と時代劇改革の指揮権移譲を受けて、東映京都の実権を握っていた。一方、橋蔵主演の映画は興行不振が続き、1965年以降、映画出演が減らされた。また1965年から1966年3月の結婚に至るまでの女性スキャンダルが週刊誌等に書き立てられ、人気も落ちており、岡田はテレビでの橋蔵人気の挽回を狙った。岡田は「善良性の時代劇はテレビでやったら受ける、お茶の間で。これから善良性のものはテレビでやるから、全部移すと決めた。橋蔵君はヤクザやったってお客が来るわけない。根っこからの善良性のスターに。だから橋蔵君にテレビに移ってくれと言った。案の定テレビの時代劇は当たりました。『水戸黄門』なんかいまだにやってるでしょ。だからウチが先鞭切ったんだ。やらざるをえなかったからやったんだけど」と2005年のインタビューで、他に「東映京都のテコ入れは『銭形平次』などテレビでどんどん時代劇を作ることだった。映画界はテレビを見下していたが、ウチは同居してしまった。時代劇はもう映画ではダメだった」「私が設立した東映京都テレビ・プロダクションは、映画だけでは飯が食えない時代がやってきたことを意味し、これに大川橋蔵さんが真っ先に賛同して人気テレビ時代劇になる『銭形平次』に出演してくれた。橋蔵さんの『京都撮影所を離れたくない。映画でなくてもここでやりましょう』という思いがスタッフの皆にも通じた」などと述べている。沢島忠は岡田からの本作演出要請に「時代劇はやりたかったが、テレビに慣れてしまうと映画もいい加減に撮ってしまうのではないかと思い断った」と話している。 フジテレビプロデューサー・高橋久仁男は、番組立ち上げと橋蔵の抜擢について、以下のような証言をしている。1965年4月の番組改編で、フジテレビがナイター中継の雨傘番組として長谷川一夫主演の大映『銭形平次捕物控』を用意した。すると、その年は雨が多く5月、6月に『銭形平次捕物控』が立て続けに放映され、視聴率がナイターを上回ったことから、編成部長の片岡政則が早速、映画部長の安永予士人に原作権の獲得を要請し、高橋が担当となった。日本文藝家協会に打診したところ、原作者側の野村家はテレビ局や制作プロダクションをあまり信用していないので、制作方針を書面にしてくれないと取り次ぎかねると言われた。それで高橋が野村胡堂の著作を一週間かけて読み漁り、六ヶ条のコンセプトをまとめて提出したら野村家から了承を得られた。野村家がOKした決め手になったのは、お静の鉄火肌イメージを一新し、芯は強いが物静かで、夫の職業に口出しせず、台詞廻しも現代的にするという部分で、お静のモデルである野村胡堂の未亡人がこれに共感してくれたという。続いて平次役のキャスティングは歌舞伎を含む大物に打診したが、なかなか諸条件が合わなかった。苦慮していると、東映が制作させて欲しいとアプローチをかけてきたので、「大川橋蔵なら」とフジテレビ側の希望を伝えた。すると東映から「橋蔵にテレビに出てくれと言える者はいない」と返答され、高橋は仕方なく橋蔵が所属する新芸術プロダクションの社長に直接交渉すると、東映のヤクザ路線や深夜興行に馴染めない橋蔵は、東映との専属契約も切れたままになっており、テレビに少なからず興味を持っていたと返答される。橋蔵は「町人マゲの役は初めてだし、テレビに不安もあるから単発ドラマのほうが」と躊躇ったが、高橋は連続物でと押し切った。橋蔵は「京都でまだ映画もやりたい」、「気心の知れた東映京都の仲間となら」ということで、東映京都で撮影するという条件でオファーを受けた。また16mmフィルムによるテレビ映画という条件も付けた。 上記のように『実録テレビ時代劇史』での高橋の証言では、東映から橋蔵にテレビに出てくれと言える者はいないと返答されたので、フジテレビ主導で大川のテレビ出演を決めたとしているが、当時の文献にはこの話とは真っ向反対の記述がされているものがあり、東映では橋蔵にテレビに出てくれと言える者はいないどころか、橋蔵から条件次第ではテレビ出演も可という了承を貰っていた。また、『半七捕物帳』での長谷川一夫のギャラが民放史上最高の一本100万円(番組1回の製作費は約500万円)だったことから、テレビでも高額のギャラを取れると認識した東映は、某代理店に「長谷川以上のギャラを出すなら橋蔵のテレビ初出演を受ける」という意思表示をしたところ、「とんでもない」と蹴られた。しかしこの話を聞いたフジテレビが、東映のいい値に近い線を飲み、出演が決定したというもので、大川のテレビ出演は東映主導で決めたと書かれたものがある。岡田茂は「橋蔵君にテレビに移ってくれと言った。これが要するに『銭形平次』です」などと述べている。 野村胡堂の捕物帳ものの人気を改めて見せつけたことから、フジテレビもその恩赦に浴しようという算段で製作を決めた。当時のフジテレビ編成局長・村上七郎は「できるなら1965年の暮れからでも放送をスタートしたかったのですが、主役の平次を誰にお願いしようかと五、六人の候補を出して迷っていたのです。先ず平次は若くて美男で、しかも敏捷でなくてはならないという人選に悩みました。だが、橋蔵さんがこの役を引き受けてくれるならばいうことはないと考えていました」と述べている。 フジテレビが最初に候補に挙げたのは宇津井健だった。以降、宝田明、里見浩太朗などが候補に挙げられ、最終的に本郷功次郎で九分九厘決まりかけた。新たな候補を探している最中にTBS系で長谷川主演による『半七捕物帳』が1966年3月からの放送が決まったため、この大物親分に対抗するには橋蔵以外にないと急転直下で橋蔵の起用が決まった。時代劇映画の不振で岐路に立った橋蔵のお茶の間進出であった。長谷川一夫主演の『半七捕物帳』はTBSの水曜劇場枠で『銭形平次』の30分後に放送が始まり、"銭形平次"は長谷川一夫イメージが強く、フジテレビも橋蔵も背水の陣を布かざるを得ない状況となった。 里見浩太朗は「『銭形平次』は実は僕に最初に話が来た。『スタジオで撮り、絵がきれいに出るビデオテープを使うならやりたい』と僕が条件を出したが、フジテレビ側が『フィルムで撮る』と譲らないので断った。そのあと橋蔵さんのところへ話を持って行ったらしい。橋蔵さんも当時はテレビ映画を"紙芝居"と呼んで嫌がっていた。しかし所属事務所の社長が『これからはテレビの時代が来る』と説得してやむなく受けたらしい」などと話している。
※この「橋蔵平次誕生」の解説は、「銭形平次 (大川橋蔵)」の解説の一部です。
「橋蔵平次誕生」を含む「銭形平次 (大川橋蔵)」の記事については、「銭形平次 (大川橋蔵)」の概要を参照ください。
- 橋蔵平次誕生のページへのリンク