日本テレビ在職時代とは? わかりやすく解説

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日本テレビ在職時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 07:11 UTC 版)

井原高忠」の記事における「日本テレビ在職時代」の解説

1954年大学卒業後、新卒第1期社員として日本テレビに入社同期金原二郎がいる。1956年には、ワゴンマスターズの後輩だった堀の紹介秋元近史日本テレビに入社させ、ADとして使う。 1958年草笛光子メイン据えた光子の窓』でディレクターとしてデビュー放送作家として永六輔起用1959年2月、まだ日本人海外渡航困難だった時期に、NBCスペシャル番組「ジャパン・スペクタクル」のスタッフとして渡米ロサンゼルスニューヨーク廻りNBCの「ペリー・コモ・ショー」やCBSの「エド・サリヴァン・ショー」といった著名な番組制作現場見学アメリカのテレビ局からバラエティ番組制作ノウハウ持ち帰り、これを日本のテレビ番組実践日本におけるバラエティ番組草分けとなった帰国後、渡辺プロダクションナベプロ創業者渡辺晋から、当時18歳だった伊藤日出代月子姉妹紹介され、「エミ・ユミ」の芸名と「ザ・ピーナッツ」のグループ名を付ける。 1960年10月30日放送の『光子の窓』では、カラーVTR国内放送局として初め使用したイグアノドンの卵」を制作テレビ可能性危険性対す警鐘を鳴らすとともに、その色彩効果対す芸術性の高さが認められ第15回文部省芸術祭奨励賞受賞する。しかし、作家だった永が60年安保前後から反政府デモ熱中して台本締切を守らなかったため、井原は永を番組から外し日本テレビ全体からも出入り禁止処分とする。これによって一社提供していた資生堂心象悪くなり、同年12月、『光子の窓』は打ち切られた。永の後任として『スタジオNo.1』や『シャボン玉ホリデー』などを担当した作家陣からは、小林信彦井上ひさしらを輩出した1961年6月から開始したシャボン玉』では、ザ・ピーナッツメイン司会起用されるが、ザ・ピーナッツはもちろんクレージーキャッツなど出演者大半ナベプロ所属ということもあり、「ナベプロ帝国」とまで言われ渡辺経営方針を既に嫌い始めていた井原関与せず秋元プロデュース担当した。もともと日本テレビ制作音楽班にはナベプロに近い人物多くナベプロ以外の事務所に所属するタレント番組専ら担当した井原は、『シャボン玉』が高視聴率取り続け1960年代通じて社内孤立していた。その過程劇団新派出身水谷良重冠番組あなたとよしえ』、マナセプロダクション所属していた坂本九冠番組九ちゃん!』『イチ・ニのキュー!』などを手がける1963年、『夜をあなたに』でラジオ・テレビ記者会賞受賞1965年)に『11PM』を企画し不毛の時間帯であった深夜帯開拓した。しかし、初期11PM報道局所管となり、時事解説中心とする内容だったため全く視聴率取れなかった。このため構成作家として入った大橋巨泉が「何なら俺が変えてやる」と自ら出演希望し井原はこれを受け入れ報道局説得し全面リニューアルさせた。結果番組大ブレイクし、井原退職後の1990年まで25年にわたり日本テレビ界を代表する深夜番組として君臨する至った1969年には巨泉前田武彦による『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』をプロデュースした詳細は「11PM#エピソード」および「大橋巨泉#11PMクイズダービーなど司会者活躍」を参照日本テレビ・報道局制作番組の分野別一覧#終了した主なニュース番組」も参照 1971年10月改編スタートしたスター誕生!」では、阿久悠から出され企画書対し井原ホリプロダクション経営軌道乗せていた堀らを誘い具体化させ、プロデューサー後輩池田文雄据えて実行に移す。ところがナベプロは、1973年昭和48年4月改編で『紅白歌のベストテン』と同じ時間帯に、自社主導『スター・オン・ステージ あなたならOK!』NETテレビ)をぶつける。渡辺は『あなたならOK』を成功させるため『紅白歌のベストテン』の放送時間変更打ち切り要求し井原は当然認めず両者の関係決裂ナベプロすべての自社所属タレントを『紅白歌のベストテン』『スター誕生』など井原関与した日本テレビ制作番組出演させないという強硬手段に出る。結局『あなたならOK』は、レギュラー番組としては半年打ち切りとなったこの影響で、金曜22時台放送予定されていた日本テレビナベプロ共同制作バラエティ番組白紙撤回となり、埋めるべくホリプロ田辺エージェンシー所属タレント投入してスタートさせたのが『金曜10時!うわさのチャンネル!!』である。井原は同番組では「制作」(現在のチーフプロデューサーに相当)とクレジットされた。しかし、1979年打ち切られた際、堀が和田アキ子降板を相当強引に申し入れたため、和田日本テレビから一時出入り禁止になるというトラブルもあった。 詳細は「金曜10時!うわさのチャンネル!!#番組の歴史」を参照 1973年3月制作局次長昇進1974年に入ると、『スチャラカ社員』や『てなもんや三度笠』などを手掛けた朝日放送(ABC)プロデューサー澤田隆治社内干されているという話を聞き東京に誘う。澤田番組制作会社東阪企画』を設立して社長に就くが、井原発起人として優先的に仕事発注するなど、澤田東阪企画支援した詳細は「澤田隆治#東阪企画社長として」を参照 1978年6月第一制作局長に昇進。『11PM』で苦楽を共にした都築忠彦が、アメリカ合衆国行われているレイバー・デイ・テレソン参考として上げてきた『24時間テレビ』を実行移し成功収めたことから、2020年現在でも年1回特別番組として引き続き放送されている。 詳細は「24時間テレビ 「愛は地球を救う」#歴史」および「11PM#代表的な企画」を参照

※この「日本テレビ在職時代」の解説は、「井原高忠」の解説の一部です。
「日本テレビ在職時代」を含む「井原高忠」の記事については、「井原高忠」の概要を参照ください。

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