日本テレビ在職時代
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1954年、大学卒業後、新卒第1期社員として日本テレビに入社。同期に金原二郎がいる。1956年には、ワゴンマスターズの後輩だった堀の紹介で秋元近史を日本テレビに入社させ、ADとして使う。 1958年、草笛光子をメインに据えた『光子の窓』でディレクターとしてデビュー。放送作家として永六輔を起用。 1959年2月、まだ日本人の海外渡航が困難だった時期に、NBCのスペシャル番組「ジャパン・スペクタクル」のスタッフとして渡米。ロサンゼルスとニューヨークを廻り、NBCの「ペリー・コモ・ショー」やCBSの「エド・サリヴァン・ショー」といった著名な番組の制作現場を見学。アメリカのテレビ局からバラエティ番組制作のノウハウを持ち帰り、これを日本のテレビ番組で実践。日本におけるバラエティ番組の草分けとなった。 帰国後、渡辺プロダクション(ナベプロ)創業者の渡辺晋から、当時18歳だった伊藤日出代・月子姉妹を紹介され、「エミ・ユミ」の芸名と「ザ・ピーナッツ」のグループ名を付ける。 1960年10月30日放送の『光子の窓』では、カラーVTRを国内放送局として初めて使用した「イグアノドンの卵」を制作。テレビの可能性と危険性に対する警鐘を鳴らすとともに、その色彩効果に対する芸術性の高さが認められ、第15回文部省芸術祭奨励賞を受賞する。しかし、作家だった永が60年安保前後から反政府デモに熱中して台本の締切を守らなかったため、井原は永を番組から外し、日本テレビ全体からも出入り禁止処分とする。これによって一社提供していた資生堂の心象が悪くなり、同年12月、『光子の窓』は打ち切られた。永の後任として『スタジオNo.1』や『シャボン玉ホリデー』などを担当した作家陣からは、小林信彦や井上ひさしらを輩出した。 1961年6月から開始した『シャボン玉』では、ザ・ピーナッツがメイン司会に起用されるが、ザ・ピーナッツはもちろんクレージーキャッツなど出演者の大半がナベプロ所属ということもあり、「ナベプロ帝国」とまで言われた渡辺の経営方針を既に嫌い始めていた井原は関与せず、秋元がプロデュースを担当した。もともと日本テレビ制作局音楽班にはナベプロに近い人物が多く、ナベプロ以外の事務所に所属するタレントの番組を専ら担当した井原は、『シャボン玉』が高視聴率を取り続けた1960年代を通じて、社内で孤立していた。その過程で劇団新派出身の水谷良重の冠番組『あなたとよしえ』、マナセプロダクションに所属していた坂本九の冠番組『九ちゃん!』『イチ・ニのキュー!』などを手がける。 1963年、『夜をあなたに』でラジオ・テレビ記者会賞受賞。1965年)に『11PM』を企画し、不毛の時間帯であった深夜帯を開拓した。しかし、初期の11PMは報道局所管となり、時事解説を中心とする内容だったため全く視聴率を取れなかった。このため構成作家として入った大橋巨泉が「何なら俺が変えてやる」と自ら出演を希望し、井原はこれを受け入れ報道局を説得し全面リニューアルさせた。結果番組は大ブレイクし、井原退職後の1990年まで25年にわたり日本のテレビ界を代表する深夜番組として君臨するに至った。1969年には巨泉と前田武彦による『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』をプロデュースした。 詳細は「11PM#エピソード」および「大橋巨泉#11PM・クイズダービーなど司会者で活躍」を参照 「日本テレビ・報道局制作番組の分野別一覧#終了した主なニュース番組」も参照 1971年10月改編でスタートした「スター誕生!」では、阿久悠から出された企画書に対し、井原はホリプロダクションの経営を軌道に乗せていた堀らを誘い具体化させ、プロデューサーに後輩の池田文雄を据えて実行に移す。ところがナベプロは、1973年(昭和48年)4月改編で『紅白歌のベストテン』と同じ時間帯に、自社主導の『スター・オン・ステージ あなたならOK!』(NETテレビ)をぶつける。渡辺は『あなたならOK』を成功させるため『紅白歌のベストテン』の放送時間変更か打ち切りを要求し、井原は当然認めず両者の関係は決裂。ナベプロはすべての自社所属タレントを『紅白歌のベストテン』『スター誕生』など井原が関与した日本テレビ制作番組に出演させないという強硬手段に出る。結局『あなたならOK』は、レギュラー番組としては半年で打ち切りとなった。 この影響で、金曜22時台の放送が予定されていた日本テレビとナベプロ共同制作のバラエティ番組が白紙撤回となり、枠を埋めるべくホリプロや田辺エージェンシー所属のタレントを投入してスタートさせたのが『金曜10時!うわさのチャンネル!!』である。井原は同番組では「制作」(現在のチーフプロデューサーに相当)とクレジットされた。しかし、1979年に打ち切られた際、堀が和田アキ子の降板を相当強引に申し入れたため、和田は日本テレビから一時出入り禁止になるというトラブルもあった。 詳細は「金曜10時!うわさのチャンネル!!#番組の歴史」を参照 1973年3月、制作局次長に昇進。1974年に入ると、『スチャラカ社員』や『てなもんや三度笠』などを手掛けた、朝日放送(ABC)プロデューサーの澤田隆治が社内で干されているという話を聞き、東京に誘う。澤田は番組制作会社『東阪企画』を設立して社長に就くが、井原も発起人として優先的に仕事を発注するなど、澤田と東阪企画を支援した。 詳細は「澤田隆治#東阪企画社長として」を参照 1978年6月、第一制作局長に昇進。『11PM』で苦楽を共にした都築忠彦が、アメリカ合衆国で行われているレイバー・デイ・テレソンを参考として上げてきた『24時間テレビ』を実行に移し、成功を収めたことから、2020年現在でも年1回の特別番組として引き続き放送されている。 詳細は「24時間テレビ 「愛は地球を救う」#歴史」および「11PM#代表的な企画」を参照
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