日本テレビ動画時代
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1971年11月、新倉は元東京テレビ動画のメンバーを中心に再々度立ち上げられたアニメ制作会社日本テレビ動画の社長に就任する。日本テレビ動画は、旧東京テレビ動画の新潟スタジオが拠点となった。東京テレビ動画が社名を変更しただけのように見えるが、別会社である。新倉が新潟政界の実力者である田中角栄と関係があったという証言が、後述の1986年に逮捕された際の報道に記載されている。その中で、日本テレビ動画の名目上の代表取締役だった稲庭左武郎(社内では「会長」と呼ばれていたという)が、田中と関連が深いといわれたNST新潟総合テレビの役員を務めていた人物だった。 日本テレビ動画は、1972年4月にTBSでスタートした『アニメドキュメント ミュンヘンへの道』を手がけてアニメ制作に復帰する。新潟だけでは制作に不都合を来すため、中野区のビルの部屋を借りて拠点としていた。ところが、同年8月開始の後番組『モンシェリCoCo』の放送中、新倉は10月9日付で日本テレビ動画の取締役を辞任した。10話以降は新倉のクレジットも削除され、何らかのトラブルがあったとみられている。
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