平均損失率
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「ドイツ海軍小型戦闘部隊」の記事における「平均損失率」の解説
出撃数および損害(1945年1月 - 5月):273 種別出撃損害損失率ゼーフント 142 35 ≈ 25 % ビーバー、モルヒ 102 70 ≈ 69 % リンゼ 171 54 ≈ 32 % 合計 415 159 ≈ 42 % 戦時中に活動していた他の軍部隊と比較しても、K戦隊の損失率は非常に高い。その原因を推測することは難しいが、1944年および1945年の時点では他の潜水艦戦力でも同様に損失が急増していた。一方、隊員の忠誠心こそを損失率の理由とする主張もある。つまり、K戦隊の一部は自殺部隊(Selbstmordkommandos)と指定されており、当該部隊の隊員らは「"孤立したる闘士"(Einzelkämpfer, コマンド隊員と同義)」として教育を受けていたため、高い損失率を示したとするものである。ただし、こうした主張はしばしば矛盾をはらんでいる。 体当たり攻撃を任務とした空軍のゾンダーコマンド・エルベのように、一般にK戦隊はドイツにおける自殺攻撃(Suizideinsätze)の一例と見られる事が多いが、いわゆる自己犠牲部隊(Selbstopfereinheit)と公的に位置づけられてはいない:5:171。K部隊においては命令のもと死を強制されることはなかった。ただし、空軍の体当たり攻撃と同様、乗員らが任務遂行後安全に離脱するための時間的余裕は極めて限られていた。ハイエは1955年に出版された著書において、「高度に文明化された白色人種たるこれら兵器乗員は、例えば死を選んだ日本人飛行士とは異なり、作戦後の生存および復帰のための本物のチャンスがあったし、なければならなかった」と述べている:505:6:6:8。この点がK戦隊の基本原則の1つであることをハイエは強調した。同書は各隊員が出撃までに必ずや生還の可能性が高いという確信を持つべきであるとしている。ただし、実際に連合国軍に発見・追跡された隊員の中には、捕虜になることよりも「英雄的な死」を選ぶ者も少なくなかった:5。さらにハイエは同書の中で、自己犠牲を良しとする者とそれらを無駄と断ずる者の中間に自らを置き、次のように述べている:108。 我が民族の中にも、犠牲的な死(Opfertod)に志願し、また実施する精神力を持つ者は複数あるかもしれない。しかし私が思うに、文化的国家に育てられた白色人種がそのような行為を行うことはもはや不可能である。世界中のすべての軍隊にしばしば見られるように、突然頭に血が上り自らの命を顧みず戦おうとする勇敢な男は何千人もいた。しかし、犠牲的な死というものは、数時間前、せいぜい数日前に思い立って実施されるもので、我が民族が採りうる戦法として確立されたことはほとんどない。人にそうした行いをさせるほどの宗教的狂信を欧州人は持たない。人々はもはや自らの生死に関連し原始的軽蔑を抱かない。 ハイエの一見して人種差別的な見解は海軍総司令部の要請を受けて特に強調されたもので、この原則のもと小型戦闘装備の開発に当たっては装備自体が再使用可能であるか、少なくとも隊員が攻撃の後に脱出して再度戦闘に復帰できる可能性があることが求められた。唯一の例外は使い捨てを想定して設計されたリンゼ特攻艇である。乗組員は衝突直前に脱出し、以後は無人ないし遠隔操縦で誘導することとされていた。人間魚雷ビーバー、モルヒ、ヘヒト、ゼーフントには炸薬や信管が搭載されておらず、日本製の回天のような体当たり攻撃に用いることはできなかった。人員の不足:223や訓練コストの増加:514も、隊員の消費を加速させる自殺戦法に対する反発を招いた。訓練担当者らも自己犠牲を求めなかった。ヨハン=オットー・クリークは訓練生に対し、帰国が不可能と判断した場合は艇を自沈させた上で付近の船舶に助けを求めるように指導しており、自己犠牲は無意味であって、例え捕虜としてであっても生存することが重要であると述べている:58。 一方、こうした指導部の見解や声明は必ずしも正しくないとする関係者もある。例えば、1944年8月の海軍戦争指導部(ドイツ語版)日誌では、「ウィンケルリート」(Winkelried)、「カミカゼ」(Kamikaze)、「殉教者」(Opfergänger)、「犠牲的戦闘員」(Opferkämpfer)、「総力出撃」(Totaleinsatz, 自殺任務の婉曲表現)、「シュトルムヴィーキンガー」(Sturmwikinger, 特攻艇を指す語)といった自己犠牲的任務を示唆する用語が多用されている。こうした用語は、兵士が上官ないし司令部の命令を受け入れた上で、あるいは自発的に実施した自己犠牲攻撃の成功を表すために用いられた。「ウィンケルリート」は、「任務の最中に指導者、民族、祖国のために自らを犠牲にした」とされるスイスの国民的英雄アーノルト・ウィンケルリート(ドイツ語版)に因んだもので、自己犠牲攻撃のために戦死した兵士に捧げられる称号として用いられた。最初にこの語が用いられたのは、第361K艇団(K-Flottille 361)に所属する10人の若者に対してである。彼らは航続距離や帰還可能性を顧みずに全ての重要目標の破壊を任務としており、出撃前からウィンケルリートという称号が冠されていた。結局、10人のうち生還した者はいなかった:509。当時、K戦隊西部幕僚部総監(Chef des Kommandostabes West der K-Verbänd)を務めていたフリードリヒ・ベーメ(Friedrich Böhme)は、「彼らの自己犠牲精神はウィンケルリートと称するに値する」と述べている。海軍官報(Marine-Verordnungsblatt)に掲載されたデーニッツの署名付き戦死公報では、「彼らの精神は、全海軍将兵の模範であるとともに、任務遂行の意志を強く鼓舞することとなる」(... Der Geist, der aus diesen Männern spricht, soll für jeden Soldaten der Kriegsmarine Beispiel und Ansporn zur höchsten Pflichterfüllung sein.)と述べられている。 1944年8月3日に実施された奨励演説(AnfeuerungsspruchあるいはAnfeuerungs-FT)において、ハイエはネガーおよびマーダーの乗員を募集するにあたって、「祖国最前線を巡る激戦におけるウィンケルリート」を求めると述べている。隊員らがこうした指導部の姿勢に影響を受け、自己犠牲の意思を固めたか否かは定かではない。関係者は戦後もこの点について証言しなかった:520。また、自己犠牲を強調した表現で隊員募集が行われたのは人間魚雷のみで、ビーバーやゼーフントの乗員に向けては行われなかった。1945年1月18日、デーニッツがヒトラーに対して行った状況報告において、特攻艇を指す「シュトルムヴィーキンガー」(Sturmwikinger)なる表現が初めて用いられた。デーニッツは「遠距離の目標に対して、K戦隊は『シュトルムヴィーキンガー』を用いることでのみ対抗できる」と述べた。 戦後の尋問において、デーニッツはK戦隊が当初から「消耗品」(Verbrauch)として捉えられていたと語った。すなわち、安価に製造され、交換も容易であると考えられていたのである。ハイエは1955年の著書において、理想的な"孤立したる闘士"とは、上官の命令がなくとも自らの判断において活動する者であると述べている:8 Pt.3。イギリスによる戦後の報告書では、K戦隊における自己犠牲が非常に多かったことが示唆されているものの、実際の割合は不明であり、いずれの小型戦闘装備の設計にもそうしたアイデアは反映されていない。デーニッツの証言も同様である。K戦隊が大きな損害を被った原因が、隊員の自己犠牲的判断によるものか、装備が不十分なものであったため、あるいは戦況が劣勢であったためかは定かではなく、むしろこれら3つの要因が複合した結果と考えられている。
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