小瀬川とは? わかりやすく解説

小瀬川

国分けの川小瀬川 豊かな自然とふれあい求めて
小瀬川は、広島県廿日市市(旧佐伯町)の飯山にその源を発し幾つも渓流合わせながら、廿日市市佐伯町野付近から山口県境を南流し途中渡ノ瀬川合流し弥栄ダム経て広島県大竹市及び山口県和木町瀬戸内海の注ぐ幹川流路延長59km、流域面積340km2河川です。

広島・山口県境を流れる小瀬川
広島山口県境を流れる小瀬川

河川概要
水系小瀬川水系
河川名小瀬川
幹川流路延長59km
流域面積340km2
流域内人26,500
流域関係都県広島県山口県

小瀬川流域図
○拡大図
1.小瀬川の歴史
"小瀬川は、広島県山口県県境流れる川です。1600年代の小瀬川河口部川筋幾筋になっており、洪水の度に川筋変化していました。そのため1801年まで両県の県境確立してませんでしたが、両県の和談成立契機に、大規模な干拓事業が行われるようになり、この干拓事業と併って小瀬川河口部築堤進み現在の様な河川完成しました。"

 
[小瀬川境界論争
小瀬川(おぜがわ)は、広島県山口県県境流れる川で、藩政時代には安芸(あき)側(広島県)で木野川(このがわ)、周防(すおう)側(山口県)で小瀬川、またこの河川は芸防(げいぼう)両国国境であることから御境川(おさかいがわ)と呼ばれていました
寛政10年頃の河口
寛政10年頃の河口
現在の小瀬川河口
現在の小瀬川河口
1600年代の小瀬川(おぜがわ)河口部川筋幾筋になっており、また、洪水の度に川筋変化させ、上流からの土砂供給等によって自然の沖積作用によって広大な干潟発達していました両国境界決め一つで、そのまま両国利害大きく左右することにつながるため、自然本流定まらない状況の中、国境河川であることから度々領地紛争繰り返されその度多く負傷者出してきました。この紛争解決する方法は、明確不動国境定めて両国にて合意する外に方法はありませんでした。そこで両藩当局享和元年(1801)和談によってこの地に境界設置し、翌二年(1803)には大工事を断行し境界水路現在の川筋)を大きく掘り割り水路中央線をもって境界確定させましたまた、別け同時に行い毎年両国は磯の境界線より双方30間(約54m)ずつ離して打ちそれより内側双方利用範囲として、長い間続いた境界論争終止符打たれました。

河口干拓の歴史
この、小瀬川境界工事完成に伴い干拓境界付近において活発に行われる様になり、山口県側の和木(わき)では岩国藩(いわくにはん)により享和3年(1804)から享和開削始められその後も、次々と嘉永3年(1850)までに装束(しょうぞく)開発、沖(おき)新開事業が行われました一方広島県側の大竹(おおたけ)による干拓事業山口県側より遅く文化5年(1822)に青木(あおき)新開が、その後、中(なか)、沖(おき)、油見(ゆみ)、立戸(たちど)、小島(こじま)、烏帽子(えぼし)新開開かれ明治始めまで大規模な干拓事業が行われました。これら両県の干拓事業と併って小瀬川(おぜがわ)河口部築堤進み現在の様な堤防線形完成しました
このように、小瀬川(おぜがわ)の河口部堤防は主に治水上の堤防ではなく干拓による土地造成のための必要な堤防として干拓事業進行伴って築堤されてきました
凡例 赤:享和元年1800以前干拓され土地
黄:享和元年(1801)以降干拓され土地
青:明治中期1900以後埋立られた土地
小瀬川河口干拓様子
小瀬川河口干拓様子
2.地域の中の小瀬川
"小瀬川の水質和紙生産には最適であり、昔、小瀬川流域には多く紙すき職人活躍していました。現在は、大規模な用水産業工場誘致され、現在の太平洋ベルト地帯主要な地位占めることとなりました。小瀬川の河川利用状況は、7月には弥栄湖スポーツフェスティバル開催されている他、ひな流し大竹市)」等、小瀬川を舞台様々な行事催されています。"

[小瀬川の産業
紙すきの様子
紙すき様子
藩政時代産業密接な関係があり、流域大部分農業従事し、小瀬川(おぜがわ)の重要な資源として貢献してきましたその中でも、小瀬川(おぜがわ)の水質和紙生産には最適であり、小瀬川(おぜがわ)流域には多く紙すき職人活躍していました
明治・大正時代になり、近代化基礎確立されてきてはいましたが、引き続き農業和紙生産中心時代続きました
小瀬川河口の工業地帯
小瀬川河口工業地帯
昭和20年代以降戦後復興完了した日本経済成長期入り技術革新によってめざましい発展をし、小瀬川(おぜがわ)下流地域岩国(いわくに)・大竹(おおたけ)工業地帯として石油精製石油化学製紙業化学繊維等の小瀬川(おぜがわ)がもたらす豊かで良質な用い大規模な用水産業工場誘致され、現在の太平洋ベルト地帯主要な地位占めることとなりました

小瀬川の渡しに立つ吉田松陰の歌碑
小瀬川の渡しに立つ吉田松陰歌碑
[小瀬川と人々暮らし
小瀬川(おぜがわ)は人々往来においても関わり深く山陽道下って安芸(あき)の国(広島)から周防(すおう)(山口県)に入る際に小瀬川(おぜがわ)の渡し船重要な役割果たしおりました。小瀬川(おぜがわ)の渡し船は、大正10年(1921)に両国橋(りょうごくばし)が完成してからまもなく姿を消してしまいましたが、安政の大獄(1859)で処刑され幕末思想家吉田松陰」がから江戸移送される時に二度と帰れ故郷忍んで詠んだ歌「夢路にも かへらぬ関を 打ち越えて 今をかぎりと 渡る小瀬川」からも当時、小瀬川が交通の要所であったことが伺えます。

流し雛の風景
流し雛風景
[小瀬川の水辺利用
小瀬川(おぜがわ)の河川利用状況は、上流国定公園県立公園隣接し鳥獣保護区自然環境保全地域にしてされている区間等が多く自然に恵まれ中流部全国有数規模を誇る弥栄(やさか)ダム完成し関係自治体により周辺整備がなされ、7月には弥栄(やさか)湖スポーツフェスティバル開催されて、レクリエーションの場として多く方に利用されています。また、下流部散策魚釣り恒常的に利用されいる他、「ひな流し大竹(おおたけ)市)」等、小瀬川(おぜがわ)を舞台様々な伝統行事催されています。
4.小瀬川の主な災害


発生発生原因被災市町村被害状況
昭和26年10月ルース台風大竹市死者20
負傷者33
全半壊家屋550
浸水家屋3,590
昭和44年 7月梅雨前線大竹市浸水家屋301

(注:この情報2008年2月現在のものです)




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