実戦投入以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 01:11 UTC 版)
1941年12月の真珠湾攻撃が甲標的の初陣となった。甲標的の最先任搭乗員である岩佐直治大尉が開戦劈頭に敵の港湾にひそかに侵入して攻撃する実行案を立てて、母艦の「千代田」艦長の原田覚に申し出て、原田がそれをさらに具体案にして、軍令部作戦課潜水艦作戦主務参謀有泉龍之助中佐に相談して同意と所見を得た。原田から連合艦隊長官山本五十六大将に甲標的の作戦を具申があった。山本は一死奉公の奇襲案に感激したが、攻撃後の収容が困難なため採用しなかった。岩佐中尉らがさらに改善策を作り、連合艦隊水雷参謀の有馬高泰中佐を通じてさらに数回陳情して採用に至った。1941年11月1日、甲標的の部隊は、首席参謀の松村寛治中佐の発案で「特別攻撃隊」と第六艦隊長官の清水光美によって命名された。訓練は愛媛県瀬戸町三机湾で行われ、三机湾での甲標的の訓練は終戦まで続いた。 5隻の甲標的が真珠湾に向けて出発した。日本側の航空写真の分析及び日米の現場当事者の証言から真珠湾攻撃における甲標的の戦果はなしという評価が日米両国それぞれの当初からの通説である。しかし、甲標的の潜水調査を行ったとする海洋歴史研究家Parks Stephenson、米海軍の退役大佐John Rodgaardや造船技師Peter Hsu等のこの問題の研究家を名乗る人々から、例えば当時撮られた航空写真をコンピューター分析した結果として、従来知られていた湾内で駆逐艦モナハンに撃沈された1隻以外にも湾内に侵入し、戦果を挙げたものがあるとの異説も出されている。異説としては、その別の1隻が攻撃に成功し、戦艦オクラホマはその魚雷攻撃が致命的になったとする説、戦艦ウェストバージニアが致命傷を負ったとする説等がこれまで出されている。これに対して、航空写真のオリジナルを見たことのある者からは写真に潜航艇が写っているとされるがこれは潜航艇ではなく米軍の小型艇である、両戦艦に向う2発の魚雷航跡が写っているとするがこの潜航艇は魚雷を直ちに連続して発射できるものではない、目撃者・証言者が全くいない、日米別々になされた見解が戦果を挙げられなかったことで一致している等の批判がある。そもそも、もう1隻が真珠湾に侵入し戦果を挙げたとする異説は、戦後しばらくは全ての潜航艇のゆくえを把握できていたわけでなく消息不明の艇が1~2隻あるというイメージが生まれ、その後もそれが長らく世間に残っていたため、真に受ける人もいただけと考えられる。実際には、これら異説が提唱され始めた頃には既に全ての艇の最期が明らかになっており、成立し得ない説である事がはっきりしていた。即ち、湾内と湾口付近でそれぞれ1隻が魚雷を撃ったものの命中せずに撃沈され、残り3隻は湾外で魚雷を撃たないまま撃沈あるいは捕獲されたことが、疑いの余地のないものとなっていた。この戦果があったとする異説はアメリカにおいては遅くとも1990年代前半から出されていたものだが、日本ではしばしばアメリカにおける最新の研究成果という触れ込みで、ときには5隻全隻が湾内侵入に成功したという形に誇張された上で、紹介されることがある。5隻とも未帰還となったが、1隻は座礁して拿捕されたもので、艇長の酒巻和男少尉は太平洋戦争初の捕虜となった(勿論、この酒巻艇も真珠湾侵入には至らず、また途中、駆逐艦ヘルムに発見され追撃されたものの応戦せず魚雷を撃たないままとなった。酒巻はあらためて真珠湾進入を試み、空母・戦艦等のより大きな成果を狙いたかったと述べている。)。 その後、1942年6月のオーストラリアのシドニー港攻撃では3隻による「第一特別攻撃隊」、マダガスカル島のディエゴ・スアレス港の攻撃では3隻による「第二特別攻撃隊」、ガダルカナルでは「第三特別攻撃隊」が実施された。甲標的の部隊は、その後も数が増えていったため、「特別攻撃隊」の名前は使われなくなったが、後の必死の「特別攻撃隊」に名前は受け継がれた。シドニー港攻撃を行った甲標的は米重巡洋艦シカゴの撃沈に失敗したが、豪宿泊船クッタバル(2,250トン)を撃沈、蘭潜水艦K IXを中破させ、大胆不敵な作戦行動による勇敢さは現地司令官の英国海軍将校から讃えられた。マダガスカル島の攻撃では戦艦ラミリーズを大破させ、タンカーブリティッシュ・ロイヤルティ(6,993トン)を撃沈した。ガダルカナルの作戦では8隻が潜水艦から発進、ルンガ泊地を攻撃し5隻の乗組員が生還した。艇はいずれも自沈処分され、搭乗員は上陸し味方基地へ帰投した。戦果は米輸送艦アルチバ(USS Alchiba, AK-23)撃破、米(輸送艦マジャバ(USS Majaba, AG-43))撃破など2隻または3隻であった。 ガダルカナル島の戦いで敵反攻阻止に失敗した後、日本は守勢に転じ、甲標的も防御兵器として使用されるようになる。フィリピンの作戦ではセブに主基地を作り、前進基地を設けて甲標的が進出、米船団部隊を狭い水道で襲撃した。甲標的を熟知した指揮官原田覚少将の作戦指揮のもと、改良された丙型8隻をそろえて集中運用した。見張所、甲標的専用の整備施設、前進基地など支援態勢を整えたうえ、セブは内海であり、小型の甲標的でも進出索敵が容易であった。こうした好条件から日本側判定としては艦船20隻を撃沈した。米側は駆逐艦1隻の喪失を記録している。実際の戦果は乏しかったが作戦自体は高度なもので、1944年11月から1945年3月23日まで、安定して生還と襲撃を繰り返した。 甲標的の欠陥とそれにともなう作戦遂行の難しさは現場の搭乗員や技術者たちも理解しており、その不満が行動力不足を改善するために更に大型化した蛟龍と、特攻兵器である人間魚雷「回天」の開発に繋がった。
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