実戦投入と改修
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 09:18 UTC 版)
II号戦車はまずスペイン内戦で、I号戦車とともにテスト運用された。本格的な主力戦車であるIII号戦車、IV号戦車の生産が間に合わず、第二次世界大戦開始時のポーランド侵攻から主力として実戦投入された。初期の電撃戦ではその軽快性と機動力が大いに発揮され、その戦闘能力も当時においては有効だった。 電撃戦の生みの親とも云われているハインツ・グデーリアンは後に「まさかこれら訓練用戦車で大戦に突入するとは思ってもみなかった。」と語っているが、一方では榴弾も使用できる20 mm機関砲は歩兵の最大の敵である重機関銃手を攻撃するのに最適であり、被弾面積の小ささと単価の安さもあって参謀本部の中にはこの戦車を主力とするよう献言したものもいた。また主砲はもともと重対戦車ライフルから発展した高射機関砲であるために初速が高く、その徹甲弾は相手が軽装甲であれば十分な威力を発揮できた。しかし、対戦車攻撃力を重視するルートヴィヒ・ベックの反対もあり、結局当初の予定通りIII号戦車を主力とする方針が貫かれた。実際にポーランド戦後、III号、IV号の生産がある程度軌道に乗り始めると、II号戦車は偵察・連絡を主任務にするよう格下げされた。しかし、その後もしばらくは、数量的にはなおドイツ軍戦車部隊の主力車両であった。 また、b型以降若干強化されたとはいえ装甲はなお薄く、ポーランド戦では対戦車火器によって大きな損害を蒙り、うち少なくとも78両が修理不能の全損となった。そのため1940年5月以降、c、A~C型の車体前面、砲塔前面に15 mmまたは20 mmの増加装甲を取り付ける改修が行われた。また、フランス戦後の1940年10月には、砲塔上面の大きな角形ハッチに替えて、全周にペリスコープを備えたコマンダー・キューポラが導入され、その改修キットが配布された。 その後も、バルカン戦線、北アフリカ戦線、独ソ戦と、II号は既に非力となりながらも戦い続けた。1941年3月からは、標準型II号戦車の最終型となるF型の生産が開始された。F型はC型までと比べ、基本装甲が全体的に増厚されており、車体前端は平面の組み合わせとなり、戦闘室前面も車体幅一杯の一枚板となった。また、砲塔には最初からキューポラが装着されていた。本来はC型に引き続き生産されるべきものだったが、これら改設計に手間取ったため、生産開始までに約1年の遅れが生じることになった。この頃にはすでに戦車としての価値はほぼ失われつつあったが、一方で、ドイツは装甲師団の大幅な拡張を始めており、その充足用に生産されたのである。生産はFAMO社1社のみで行われ、1942年12月までに524輌が作られた。標準型II号戦車の生産はこれをもって終了したが、車台はその後も派生型である自走砲用に引き続き生産された。
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