実戦・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 22:38 UTC 版)
九九式襲撃機・九九式軍偵察機は、日中戦争(支那事変)後期から太平洋戦争(大東亜戦争)全期にわたって使用され、主に飛行分科「襲撃」・「軍偵」の飛行戦隊・独立飛行中隊に配備、中国大陸から南方戦線(マレー半島、インドネシア、ビルマ、ニューギニア、フィリピンなど)各地の広範囲で活躍した。低空運動性の高さ(敵戦闘機撃墜の報告もある)、単純で頑丈な固定脚であるがゆえの不整地からの離着陸性能の良さ、また搭載翼銃砲は機首配置の場合のプロペラ同調式を採用せず整備性が良かったことなどから、戦地での酷使にも耐える実用性の高い機体であった。素直な操縦性と堅牢な機体構造と十分な馬力から教導訓練用の高等練習機としても重宝され、さらに連絡機や要人輸送機としても盛んに使用されるほどの汎用性も魅力であった。 大戦後半には飛行分科「対潜」の飛行部隊に配備され対潜哨戒機としても活躍しており、中でも1945年(昭和20年)8月6日にはバリ島沖・ロンボク海峡にて、アメリカ海軍潜水艦「ブルヘッド (USS Bullhead, SS-332) 」を60kg爆弾にて確実撃沈している。なお、「ブルヘッド」は第二次大戦において敵の攻撃で撃沈された最後のアメリカ海軍艦艇である。 しかし大戦後半になると基本設計の旧式化は否めず、また敵の新鋭戦闘機に比べ相対的に低馬力・低速になったため、撃墜されることが多くなり損害が増大している。また他の日本機と同様に作戦機としては爆弾の搭載量が少なく、航続距離も不足しがちであった。それでも、その信頼性と汎用性の高さから終戦まで陸軍地上攻撃機の主力機として第一線で活躍し続けた。例として、1944年の中国戦線における大陸打通作戦では、8月6日に在支米空軍飛行場がある要衝たる衡陽陥落に九九襲ないし九九軍偵が貢献(友軍地上部隊の眼前にて近接航空支援を実施)。さらにフィリピン防衛戦におけるレイテ島の戦いでは、1944年11月4日未明に一式戦闘機「隼」や九九式双軽爆撃機とともに数機の九九襲がタクロバンのアメリカ軍占領下の飛行場およびレイテ沖に停泊中の輸送船を攻撃、この協同戦で在地敵機41機に確実に損傷を与え米第345爆撃航空群要員100名以上が戦死する戦果を挙げている。1945年の沖縄戦でも飛行第66戦隊の九九襲が通常の艦船攻撃に投入された。 そのフィリピンの戦いを指揮した、第4航空軍司令官富永恭次中将が台湾へ脱出した際に搭乗したのも飛行第32戦隊に属する本機であった。富永はデング熱に罹患しており、まともに歩行できなかったので、後部座席までよじのぼることができず、参謀らが尻を押して飛行機の中に放り込んでいる。富永機には副官の内藤准尉が搭乗する本機と4機の護衛機の一式戦闘機しか随行しなかったが、圧倒的なアメリカ軍の制空権下で無事に台湾に到着している。 末期には胴体下に250kg爆弾が搭載できるように改造され、対艦攻撃機もしくは特攻機として用いられることも多かった。 本機は有名なアメリカの飛行家である、チャールズ・リンドバーグの駆るP-38戦闘機とも戦っている。リンドバーグの僚機2機を相手に、高い運動性をもって翻弄していた1機が、リンドバーグ機との対進戦での撃ち合いに敗れ撃墜されている。 戦後、海外に残存した一部の機体が現地の軍隊で運用された。特に、国共内戦の際の中国人民解放軍やインドネシア独立戦争の際のインドネシア人民軍で運用されたことが知られている。 1945年1月6日、ルソン島の戦いにおいて軽巡洋艦「コロンビア」に命中直前の九九襲ないし九九軍偵の特攻機 同左。「コロンビア」に命中した瞬間 1945年1月8日、ルソン島の戦いにおいて重巡洋艦「ルイビル」 に命中した瞬間の九九襲ないし九九軍偵の特攻機(「石腸隊」あるいは「進襲隊」) 1945年5月26日、沖縄戦において九九襲ないし九九軍偵を装備する特攻隊である第72振武隊の操縦者達(中央は荒木幸雄伍長)。翌27日に、隊長佐藤睦男中尉以下第72振武隊は万世陸軍飛行場を出撃、沖縄沖50kmの地点で駆逐艦「ブレイン」に突入、大破・炎上の確実戦果を挙げた
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