大統領時代・全民族融和の象徴
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「ネルソン・マンデラ」の記事における「大統領時代・全民族融和の象徴」の解説
1994年4月27日に南アフリカ史上初の全人種参加選挙が実施された。この選挙でANCは得票率62.65%、252議席を獲得して勝利し、マンデラは大統領に就任した。就任式ではヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の指導者が祈るなど全宗教の融和も図られた。5%以上の得票率のあった政党すべてに政権参加を義務付けるという暫定憲法の権力分与条項に基づき、ANCは国民党およびインカタ自由党と連立政権をたて、統一政府を樹立した。マンデラ政権は、第一副大統領にターボ・ムベキ(ANC)、第二副大統領にデクラーク(国民党)、内相にブテレジ(インカタ自由党)といった有力政治家を据え、全27閣僚のうちANC18、国民党6、インカタ3という構成で、蔵相や工業相といった産業・経済的な部門に国民党閣僚を多く任命する一方、軍事や治安部門はANCで押さえるという構成になった。 マンデラ政権が最も心を砕いたのは、アパルトヘイト体制下での白人・黒人間、またインカタ派とANC派などといった対立をいかにして収め、全人種を融和させるかということであった。そのため、それまでの国旗に代わり、6つの原色に彩られた新国旗に象徴される「虹の国」を掲げ、新国歌を制定することを手始めに、様々な手を打っていった。1995年には第三回ラグビーワールドカップが南アフリカで開催されるが、アパルトヘイト後初の自国開催の国際大会となるこの大会をマンデラは全力を挙げて支援した。ラグビー南アフリカ共和国代表(スプリングボクス)は当時ほとんどの選手が白人、特にアフリカーナーで占められており、またラグビー自体が白人のスポーツとして黒人など他人種には不人気であったが、マンデラは開幕戦を直接観戦し、またスプリングボクスを国民融和の象徴として支援し続けた。そのこともあってスプリングボクスは快進撃を続け、決勝戦で再びマンデラが観戦する中で初優勝を遂げた。1996年にはデズモンド・ツツを委員長として真実和解委員会が設置され、アパルトヘイト時代の人権侵害について調査し公表した。マンデラ自身も意図的に自らが融和のシンボルとなるよう心がけており、こうした施策により、マンデラ政権は国民統合に関してはかなりの成果を上げることに成功した。 経済的にはアパルトヘイト時代に極度に広がった人種間の経済格差の是正、経済制裁下に起こった極度の経済不況からの回復、郊外の不衛生でインフラの整っていないタウンシップやホームランドに押し込められていた黒人の生活環境の向上が急務とされ、こうした問題を解決するためにマンデラ政権は復興開発計画(RDP)を公表した。これは黒人居住区のインフラ建設を柱にして積極的な公共投資を行い、非白人を中心に生活レベルの向上を狙ったものだった。この計画はさほどの効果を上げず、白人と非白人の経済レベルは開いたままとなった。経済は成長したものの、マンデラ政権は経済政策的には国民党政府末期からの新自由主義的な経済政策をそのまま引き継いでおり、このため経済成長は順調に進んだもののそれが貧困層に恩恵を与えることは少なかった。格差を縮めるべき時点で富の再分配でなく企業の成長を優先させたため、世界で最も高い所得格差は改善されることなくそのままとなった。一方で、隣国ジンバブエのロバート・ムガベ政権が行った白人所有の土地の国有化などのような過激な経済政策を行わなかったことで南アフリカからの富の流出自体は回避し、南アフリカはBRICSの1つに数えられる高い経済成長を遂げることになる。 また、アパルトヘイト最末期に各党が抗争を繰り広げた際の武器は回収されないまま大量に市中に残っており、これを貧困層が手に入れたことで、治安が非常に悪化した。この治安悪化は黒人居住区におけるインフラ整備の失敗も原因の一つとなっていた。アパルトヘイト末期に居住制限は解除されたものの黒人居住区の住環境その他が改善されなかったため、黒人の貧困層が各都市の中心街に大挙して流れ込んだのである。とくにヨハネスブルクの中心部においてはあまりの治安の悪化に企業が北部郊外の高級住宅地であるサントンに脱出し、そこにあらたに経済中心を作り上げる事態となった。さらに経済的な移民に対しマンデラ政権が特に対処を取らなかったためモザンビークやジンバブエなどから移民が激増し、南アフリカの黒人との間に対立が生じるようになった。厚生政策では、増加が報告されていたエイズに対しまったく積極的な対処を行わず、このため南アフリカは世界でも有数のエイズ感染率を記録するようになった。外交では、マンデラの声望を背景にアフリカの紛争の調停などに積極的に動いたものの、成果を上げることは少なかった。 1996年10月11日には新憲法が制定され、1997年には施行された。この新憲法においては国内の有力言語11個を公用語に指定するなど、全人種・民族の融和を特に重視したものとなった。一方、この新憲法には強制連立の規定はなく、ANCの政権運営に不満を強めていた国民党は1996年に連立を離脱した。 マンデラは大統領就任時にすでに76歳であり、就任当初から大統領職はそれほど長期間務めることはないと推測されていた。マンデラの後継者をめぐっては、アパルトヘイト時代の亡命者を中心とする国際派、および国内で解放運動を行っていた急進派がターボ・ムベキ副大統領を、国民党政府と解放交渉を行っていた実務派はシリル・ラマポーサANC事務総長を押して党内に対立が起きていたが、1997年12月のANC党大会でマンデラは、議長の座を副大統領のターボ・ムベキに譲った。1999年2月5日、国会で最後の演説をした。同年6月14日、任期満了に伴い大統領職を退任、同時に政治の世界から引退した。
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