大統領時代・全民族融和の象徴とは? わかりやすく解説

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大統領時代・全民族融和の象徴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:37 UTC 版)

ネルソン・マンデラ」の記事における「大統領時代・全民族融和の象徴」の解説

1994年4月27日南アフリカ史上初の全人参加選挙実施された。この選挙ANC得票率62.65%、252議席獲得して勝利しマンデラ大統領就任した就任式ではヒンドゥー教イスラム教ユダヤ教キリスト教指導者が祈るなど全宗教の融和図られた。5%以上の得票率のあった政党すべてに政権参加義務付けるという暫定憲法権力分与条項に基づきANC国民党およびインカタ自由党連立政権をたて、統一政府樹立したマンデラ政権は、第一副大統領ターボ・ムベキANC)、第二副大統領デクラーク国民党)、内相にブテレジ(インカタ自由党)といった有力政治家据え、全27閣僚のうちANC18、国民党6、インカタ3という構成で、蔵相工業相といった産業経済的な部門国民党閣僚多く任命する一方軍事治安部門ANC押さえるという構成になったマンデラ政権が最も心を砕いたのは、アパルトヘイト体制下での白人黒人間、またインカタ派とANC派などといった対立いかにして収め全人種を融和させるということであった。そのため、それまで国旗代わり6つ原色彩られ新国旗に象徴される「虹の国」を掲げ新国歌を制定することを手始めに、様々な手を打っていった。1995年には第三回ラグビーワールドカップ南アフリカ開催されるが、アパルトヘイト後初の自国開催国際大会となるこの大会マンデラ全力挙げて支援したラグビー南アフリカ共和国代表スプリングボクス)は当時ほとんどの選手白人、特にアフリカーナー占められており、またラグビー自体白人スポーツとして黒人など他人種には不人気であったが、マンデラ開幕戦直接観戦し、またスプリングボクス国民融和象徴として支援し続けたそのこともあってスプリングボクス快進撃続け決勝戦で再びマンデラ観戦する中で初優勝遂げた1996年にはデズモンド・ツツ委員長として真実和解委員会設置されアパルトヘイト時代人権侵害について調査し公表したマンデラ自身意図的に自らが融和シンボルとなるよう心がけており、こうした施策により、マンデラ政権国民統合に関してかなりの成果上げることに成功した経済的にアパルトヘイト時代極度に広がった人種間経済格差の是正経済制裁下に起こった極度経済不況からの回復郊外不衛生インフラ整っていないタウンシップホームランド押し込められていた黒人生活環境の向上が急務とされ、こうした問題解決するためにマンデラ政権復興開発計画RDP)を公表した。これは黒人居住区インフラ建設にして積極的な公共投資行い非白人中心に生活レベルの向上を狙ったのだった。この計画はさほどの効果上げず白人非白人経済レベル開いたままとなった経済成長したものの、マンデラ政権経済政策的には国民党政府末期からの新自由主義的な経済政策そのまま引き継いでおり、このため経済成長順調に進んだもののそれが貧困層恩恵与えることは少なかった格差縮めるべき時点富の再分配でなく企業の成長優先させたため、世界で最も高い所得格差改善されることなくそのままとなった一方で隣国ジンバブエロバート・ムガベ政権が行った白人所有土地国有化などのような過激な経済政策を行わなかったことで南アフリカからの富の流出自体回避し南アフリカBRICS1つ数えられる高い経済成長遂げることになる。 また、アパルトヘイト最末期に各党が抗争繰り広げた際の武器回収されないまま大量に市中残っており、これを貧困層手に入れたことで、治安が非常に悪化した。この治安悪化黒人居住区におけるインフラ整備失敗原因一つとなっていた。アパルトヘイト末期居住制限解除されたものの黒人居住区住環境その他が改善されなかったため、黒人貧困層が各都市中心街大挙して流れ込んだのである。とくにヨハネスブルク中心部においてはあまりの治安の悪化企業北部郊外高級住宅地であるサントン脱出し、そこにあらたに経済中心作り上げる事態となった。さらに経済的な移民対しマンデラ政権が特に対処を取らなかったためモザンビークジンバブエなどから移民激増し南アフリカ黒人との間に対立生じようになった厚生政策では、増加報告されていたエイズ対しまったく積極的な対処行わずこのため南アフリカ世界で有数エイズ感染率記録するようになった外交では、マンデラ声望背景アフリカ紛争調停などに積極的に動いたものの、成果上げることは少なかった1996年10月11日には新憲法制定され1997年には施行された。この新憲法においては国内の有力言語11個を公用語指定するなど、全人種・民族の融和を特に重視したものとなった一方、この新憲法には強制連立規定はなく、ANC政権運営に不満を強めていた国民党1996年連立離脱したマンデラ大統領就任時にすでに76歳であり、就任当初から大統領職それほど長期間務めことはないと推測されていた。マンデラ後継者めぐっては、アパルトヘイト時代亡命者中心とする国際派、および国内解放運動行っていた急進派ターボ・ムベキ副大統領を、国民党政府解放交渉行っていた実務派はシリル・ラマポーサANC事務総長押して党内対立起きていたが、1997年12月ANC党大会マンデラは、議長の座を副大統領ターボ・ムベキ譲った1999年2月5日国会で最後演説をした。同年6月14日任期満了に伴い大統領職退任同時に政治世界から引退した

※この「大統領時代・全民族融和の象徴」の解説は、「ネルソン・マンデラ」の解説の一部です。
「大統領時代・全民族融和の象徴」を含む「ネルソン・マンデラ」の記事については、「ネルソン・マンデラ」の概要を参照ください。

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