夜間中学校とは? わかりやすく解説

夜間中学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 07:20 UTC 版)

八幡市立男山中学校」の記事における「夜間中学校」の解説

第二次世界大戦終戦後には、学齢期にも関わらず生活困窮などの理由から昼間就労家事手伝いなどを余儀なくされた長期欠席者が多数存在した新制度発足した1947年には、小中学校の長期欠席者が全国100万人にも及んだとされている。戦後の混乱期を過ぎると義務教育における長期欠席者への対策考えられ始めたが、外部からの差別により社会的・経済下層置かれていた同和地区児童・生徒依然として働かざるを得ない状況におかれ、学校にも行けない教育以前問題であった1952年4月25日多数長期欠席者に憂慮し同和地区有志八幡小学校教諭らが協力して長期欠席者を対象とした「八幡区青少年補習学院」を開校し夜間毎週月・水・金曜日19時半-21時)に公会堂学校授業補習復習行った勉強内容は、小学生は2学年ずつに分かれてその日習った勉強復習行い中学生そろばんであった補習学院では教諭らの指導を伴う自習活動だけでなく、道徳的な教育行われ学校嫌いの子供や経済的な事情登校できない子供迎えるように仕向けた補習学院無償無給奉仕活動として行われ事業資金区内協力委員9人と区長ほか6人の顧問毎月100円ずつ出し合って賄われた。 補習学院参加者4月開校当初こそ30人程度であったが、7月初めに200人(うち中学生30人)を超える水準へと増加した1954年からは青少年問題協議会社会福祉協議会などが協力して家庭理解を深めるとともに夜間の補習学院」に加えて昼間の学校出張教室として「訪問授業」を開始し更には家庭訪問による登校勧誘行い児童勉強への関心高めるように努めたこのように外部巻き込んで行われた奉仕活動により、児童生活態度成績大幅に改善するなどの成果上げ八幡小学校長期欠席者は減少していった。 しかし、男山中学校長期欠席者は依然として多く1957年秋に八幡町教育委員会八幡町社会福祉協議会などが中心となって長欠生徒対策委員会」が設立された。同委員会長欠生徒家庭訪問行い長欠理由調査をした。その結果長欠生徒意見として、「1、学校は嫌ではないが長く休んでいるので行きにくい。 2、家庭の事情から昼は勤め出ている。 3、長欠生徒ばかりの学校作ってほしい。 4、中学校出てもすぐに仕事間に合わない。」などの理由判明し、この意見中心に夜間中学校の設置協議した協議結果、翌1958年7月、同委員会会合で夜間中学校の設置決定し開校時期については「会合任命され専任指導主事勧誘活動などを行い学習熱が帯びた段階開校する」とされた。 1959年5月15日から特設学級高等学校の「定時制の課程」とは異なる)として、長期欠席42名を対象二部授業(夜間中学校)が開設された(週3日19時-21時半)。これは京都府初の夜間中学校の開校であり、5年後廃止まで府内唯一のものであった1960年3月には出席状況良い生徒11人に対し、夜間中学校の1年ごとの修了証書授与された。また、法的に認められないながらも、八幡町教育委員会全面的な協力もあり、1960年4月からは週5日制移行し出席生徒連日20人を超える状況となった1961年3月には生徒2名に対して夜間中学校の卒業証書授与された。 夜間中学校の卒業証書授与遠足実現などの努力もあり、夜間中学校への出席率次第向上してきたが、特設学級として開設された「法に無い学校であったため苦労多かった例えば、1963年1月京都府労働基準監督署山城地方事業所金糸工場など)の一斉立ち入り検査行った際に、15歳未満女子生徒工員として働いていたため事業主摘発され男山中学校生徒4人が解雇されるという事態が起こったその際夜間中学校の生徒保護者の間では、違法性のみを考慮しやむを得ない就労に対して保障行わない当局に対して非難の声が寄せられた。解雇された4人は、教員に対してかわりの職場世話するよう訴えた同和地区夜間中学生の中で、摘発受けたのは4人であったが、摘発可能性のある生徒は他に13人いた。男山中学校では当局の対応に対して非難の声が寄せられたことから、当局交渉するという方針出された。特にこの事件の後夜間中学生達が「先生働いていることを言ったからバレた」と感じ働いていることを教員隠そうとするようになるなど学校への不信感強まったため、全教員が分担して該当生徒家庭訪問行い問題点調査が行われた。 1963年3月男山中学校の夜間中学校卒業生9人に、念願昼間同一卒業証書授与され名実ともに中学校卒業資格与えられた。そのうち5人は、学校斡旋によって会社への就職果たしている。夜間中学校は補習役割だけでなく、就職斡旋役割も担うこととなった一定の成果上げた夜間中学校であったが「法に無い学校としての弊害大きく学習効率悪かったため、1964年5月31日二部授業(夜間中学校)は廃止となり、翌日6月1日)からは昼間の補習科午前8時-11時半)に移行した生徒町内職場を持つ女子13人で、校外公共施設など特別なカリキュラムで英語を除く各教科教えスタンスであったが、社会経済状況の向上もあって役目終え翌年1965年5月30日には補習科廃止となった男山中学校における長期欠席者に対す取り組み1951年167人いた長期欠席者が14年間で数人減少)は長欠児童生徒援護会(黄十字会)に認められ、「長欠生徒対策努力校」として表彰受けた戦後夜間中学校は全国的に増加一途をたどり、1955年文部省通達ピーク減少していったが、男山中学校の夜間中学校はピークから遅れた1959年から1964年設置となった不就学長期欠席生徒減少による補習科廃止後も、「促進学級」「学習相談室」と改称しながら学力底辺層に対す補習活動続けられていった

※この「夜間中学校」の解説は、「八幡市立男山中学校」の解説の一部です。
「夜間中学校」を含む「八幡市立男山中学校」の記事については、「八幡市立男山中学校」の概要を参照ください。

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