夜間中学校
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第二次世界大戦終戦後には、学齢期にも関わらず生活困窮などの理由から昼間に就労や家事手伝いなどを余儀なくされた長期欠席者が多数存在した。新制度が発足した1947年には、小中学校の長期欠席者が全国で100万人にも及んだとされている。戦後の混乱期を過ぎると義務教育における長期欠席者への対策が考えられ始めたが、外部からの差別により社会的・経済的下層に置かれていた同和地区の児童・生徒は依然として働かざるを得ない状況におかれ、学校にも行けない教育以前の問題であった。 1952年4月25日、多数の長期欠席者に憂慮した同和地区の有志と八幡小学校の教諭らが協力して長期欠席者を対象とした「八幡区青少年補習学院」を開校し、夜間(毎週月・水・金曜日の19時半-21時)に公会堂で学校の授業の補習・復習を行った。勉強内容は、小学生は2学年ずつに分かれてその日に習った勉強の復習を行い、中学生はそろばんであった。補習学院では教諭らの指導を伴う自習活動だけでなく、道徳的な教育も行われ、学校嫌いの子供や経済的な事情で登校できない子供を迎えるように仕向けた。補習学院は無償・無給の奉仕活動として行われ、事業資金は区内の協力委員9人と区長ほか6人の顧問が毎月100円ずつ出し合って賄われた。 補習学院の参加者は4月の開校当初こそ30人程度であったが、7月の初めには200人(うち中学生約30人)を超える水準へと増加した。1954年からは青少年問題協議会・社会福祉協議会などが協力して家庭の理解を深めるとともに、夜間の「補習学院」に加えて昼間の学校の出張教室として「訪問授業」を開始し、更には家庭訪問による登校の勧誘も行い、児童に勉強への関心を高めるように努めた。このように外部も巻き込んで行われた奉仕活動により、児童の生活態度や成績が大幅に改善するなどの成果を上げ、八幡小学校の長期欠席者は減少していった。 しかし、男山中学校の長期欠席者は依然として多く、1957年秋に八幡町教育委員会や八幡町社会福祉協議会などが中心となって「長欠生徒対策委員会」が設立された。同委員会は長欠生徒の家庭訪問を行い、長欠理由の調査をした。その結果、長欠生徒の意見として、「1、学校は嫌ではないが長く休んでいるので行きにくい。 2、家庭の事情から昼は勤めに出ている。 3、長欠生徒ばかりの学校を作ってほしい。 4、中学校を出てもすぐに仕事に間に合わない。」などの理由が判明し、この意見を中心に夜間中学校の設置を協議した。協議の結果、翌1958年7月、同委員会の会合で夜間中学校の設置が決定し、開校時期については「会合で任命された専任の指導主事が勧誘活動などを行い、学習熱が帯びた段階で開校する」とされた。 1959年5月15日から特設学級(高等学校の「定時制の課程」とは異なる)として、長期欠席者42名を対象に二部授業(夜間中学校)が開設された(週3日、19時-21時半)。これは京都府初の夜間中学校の開校であり、5年後の廃止まで府内唯一のものであった。1960年3月には出席状況の良い生徒11人に対し、夜間中学校の1年ごとの修了証書が授与された。また、法的には認められないながらも、八幡町教育委員会の全面的な協力もあり、1960年4月からは週5日制に移行し、出席生徒も連日20人を超える状況となった。1961年3月には生徒2名に対して夜間中学校の卒業証書が授与された。 夜間中学校の卒業証書の授与や遠足の実現などの努力もあり、夜間中学校への出席率は次第に向上してきたが、特設学級として開設された「法に無い学校」であったため苦労も多かった。例えば、1963年1月に京都府南労働基準監督署が山城地方の事業所(金糸工場など)の一斉立ち入り検査を行った際に、15歳未満の女子生徒が工員として働いていたため事業主が摘発され、男山中学校の生徒4人が解雇されるという事態が起こった。その際夜間中学校の生徒や保護者の間では、違法性のみを考慮し、やむを得ない就労に対して保障も行わない当局に対して非難の声が寄せられた。解雇された4人は、教員に対してかわりの職場を世話するよう訴えた。同和地区の夜間中学生の中で、摘発を受けたのは4人であったが、摘発の可能性のある生徒は他に13人いた。男山中学校では当局の対応に対して非難の声が寄せられたことから、当局と交渉するという方針が出された。特にこの事件の後、夜間中学生達が「先生に働いていることを言ったからバレた」と感じ、働いていることを教員に隠そうとするようになるなど学校への不信感が強まったため、全教員が分担して該当生徒の家庭訪問を行い、問題点の調査が行われた。 1963年3月、男山中学校の夜間中学校卒業生9人に、念願の昼間と同一の卒業証書が授与され、名実ともに中学校卒業の資格が与えられた。そのうち5人は、学校の斡旋によって会社への就職を果たしている。夜間中学校は補習の役割だけでなく、就職斡旋の役割も担うこととなった。 一定の成果を上げた夜間中学校であったが「法に無い学校」としての弊害も大きく、学習効率も悪かったため、1964年5月31日に二部授業(夜間中学校)は廃止となり、翌日(6月1日)からは昼間の補習科(午前8時-11時半)に移行した。生徒は町内に職場を持つ女子13人で、校外の公共施設などで特別なカリキュラムで英語を除く各教科を教えるスタンスであったが、社会の経済状況の向上もあって役目を終え、翌年1965年5月30日には補習科も廃止となった。男山中学校における長期欠席者に対する取り組み(1951年に167人いた長期欠席者が14年間で数人に減少)は長欠児童生徒援護会(黄十字会)に認められ、「長欠生徒対策努力校」として表彰を受けた。 戦後夜間中学校は全国的に増加の一途をたどり、1955年の文部省の通達をピークに減少していったが、男山中学校の夜間中学校はピークから遅れた1959年から1964年の設置となった。不就学・長期欠席生徒の減少による補習科廃止後も、「促進学級」「学習相談室」と改称しながら学力底辺層に対する補習活動は続けられていった。
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