塀の中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 03:01 UTC 版)
「ヴァルグ・ヴィーケネス」の記事における「塀の中で」の解説
ヴィーケネスは、ベルゲン、トンスベルグ、リンゲリケ(英語版)、トロンハイム、トロムソの各刑務所で刑期を勤めた。 1994年暮れ、ヴィーケネスはノルウェー語の本『Vargsmål』を書き上げた。彼が言うには、この本は「メディアの嘘全て」から彼自身を守るため、そしてこの時の彼の孤独と怒りの痕跡を残すことが目的だった。しかしながら、ヴィーケネスは、「刑務所当局は原稿を没収しやがった。そして数年間、俺はその原稿の校正すら許されなかった。これは未完成の原稿で、個別の記事から成り立っているものだ。理想的にいえば、これが出版される前に修正をできるようになりたかったんだが、結局それは出来なかった。結局のところ、俺は改訂をあきらめて、この間違いが散見され、全くもってバランスに欠いている記事で成り立っている形で出版されたんだ。」と主張した。 1997年4月8日、ノルウェー警察はヘムネス(英語版)のネオナチ5人を逮捕した。その若者たちは、自称「アインザッツグルッペン」の一員であり、ノルウェーの官公庁や宗教施設への攻撃を企てていた。それに加えて、ヴィーケネスを刑務所から脱獄させることも計画していた。そのグループは、準軍隊的な装備を所持していた。例えば、拳銃、爆弾、防弾チョッキ、鋼鉄のヘルメット、そして目出し帽などが挙げられる。そのメンバーの内の一人、トム・エイタネス (Tom Eiternes)は、休暇中に脱獄するまで、ヴィーケネスと友人となった。ヴィーケネスの母親、ヘレーネ・ボーレは、10万ノルウェー・クローネをこの団体に寄付していたとして逮捕された。彼女は自白したものの、彼らが「極右過激派」であることを知らなかったと主張し、彼女の息子は、他の受刑者から攻撃を受けていると語った。伝えられるところでは、1996年の暮れ、ヴィーケネスは他の受刑者との格闘の末、顎を骨折している。しかしながら、刑務所の責任者は、彼女の主張は事実無根であり、警察もその金銭がヴィーケネス自身から流れてきたのではないかと疑っていた。『ブラック・メタルの血塗られた歴史』には、ヴィーケネスは「スキンヘッド」のように頭髪を剃毛することを受け入れ、この頃からバックルにSSの紋章が入ったベルトを着用するようになった。ヴィーケネスの母親は、自身の自白にもかかわらず、有罪宣告されなかった。そして1998年に「アインザッツグルッペン」の一件は幕引きとなった。 ヴァルグが刑務所に収監された後も、イギリス人女性、Tiziana Stupiaがバーズムの作品をリリースするために立ち上げた、ミサントロピー・レコードからバーズムの3rdアルバム『Hvis Lyset Tar Oss』が1994年に、4thアルバム『Filosofem』が1996年にリリースされている。これは、1993年の逮捕前にレコーディングされていた音源をアルバムにしたものである。 刑務所で過ごす間、ヴィーケネスは2枚のアルバムを録音している。この2枚のアルバムは完全なアンビエント、ダーク・アンビエントアルバムとなっている。1枚目のアルバムが『Dauði Baldrs』で、1994年から1995年にかけて録音され、1997年10月にリリースされた。2枚目のアルバムが『Hliðskjálf』で、1998年に録音され1999年4月にリリースし荒れている。ヴィーケネスは刑務所に収監中は、ギターの持込が許可されず、小型のシンセサイザーしか持込を許可されなかったため、アンビエントアルバムとなっている。そして、2000年にヴィーケネスは自身の音楽プロジェクト(バーズム)の活動終了する。彼は、彼の哲学が、ブラックメタルやサタニズムととても近い関係にある無学なファンたちが、彼の哲学をいつも誤解釈していると信じていた。後にウェブサイトを通じて、ヴィーケネスは刑務所から釈放されたのちには、バーズムの活動を再開することを望んでいると表明した。ウェブサイトには、「俺は数冊の本を出版するつもりだ。もしかしたら、匿名性を保つためにペンネームを使うことになるかもしれない。それからバーズムのアルバムを1枚か2枚リリースするつもりだ。だがそれはそれだ。」。 1998年から2004年にかけて、ヴィーケネスは更に5冊の本を獄中で書きあげている。1998年にノルウェー語の本『Germansk Mytologi og Verdensanskuelse』(「ゲルマン民族の神話と世界観」の意)を執筆。処女作『Vargsmål』を除くと、この本だけが出版されたものだった。2004年には、ヴィーケネスはこの本を英語に翻訳、新たな記事を追加し、題名も改題して出版された。改題後の英語名は『The Mysteries and Mythology of Ancient Scandinavia』(「古代スカンディナヴィアの謎と神話」の意)である。1999年にヴィーケネスは、『EihwaR』という本を執筆している。この本は、「学生とその敵対者の間の対話形式の政治・歴史・哲学を扱った小説」である。同書もヴィーケネスの手によって英語訳され、『The Religion of the Blood』(「血の宗教」の意)という英語題が付けられた。同年には、「巫女の予言」の解釈について、ノルウェー語とその英語訳で執筆している。2000年から2001年の間には、ヴィーケネスは『Teorier』(「理論」の意)を執筆している。この本は、習慣や信仰の違いの起源についての理論や、先史時代についての短い物語で構成されている。しかしながら、ヴィーケネスはこの本の執筆を止めることを決めている。2003年から2004年の間に、ヴィーケネスは「ゴシック=ファンタジー小説」・『The Cult of Hel』を執筆した。また、2003年暮れまでに、ヴィーケネスはバーズムのオフィシャルウェブサイトとなるBurzum.orgのための記事の執筆も始めている。 2003年8月、ヴィーケネスは高いセキュリティを誇るベルゲンの刑務所から、セキュリティの低いトンスベルグの刑務所へ移送された。同年10月15日、地元紙のトンスベルグス・ブラド(英語版)が、ヴィーケネスを酷評する記事を掲載した。10月26日に、ヴィーケネスは短期間の仮釈放中に逃走を図る。ヴィーケネスはヌーメダル(英語版)で車を止めさせた。この車の中には、3人の家族がおり、彼らが後に語ったところによれば、ヴィーケネスは拳銃を突きつけ、この車をハイジャックした。約19時間後、警察がこの車をロメリケ(英語版)で止めさせ、ヴィーケネスは逮捕された。この車には、ナイフやガスマスク、カモフラージュのための服、ポータブルのGPSナビゲーター、地図、コンパス、ラップトップパソコン、携帯電話が載せられていた。警察は更に、ローラグ(英語版)にあるヴィーケネスの小屋で、彼が隠し持っていた拳銃とAG3自動小銃が発見されている。そして、警察は彼の闘争は「十分に計画され、外部の複数の人間からの支援を受けていた」と結論付けた。逃走の前、ヴィーケネスは母親に手紙を送っている。この中で、ヴィーケネスは、自分が殺人の脅迫を受けていること、前述の新聞記事が掲載されてから、収監者が自分の首を絞め殺そうとしたことを書いている。ヴィーケネスはこの逃走未遂によって、13か月の刑期延長が宣告され、リンゲリケの刑務所へ移送されている。2004年7月、ヴィーケネスはノルウェーで最も厳重なセキュリティを誇るトロンハイム刑務所に移送された。そして刑期の最後の3年間はトロムソ刑務所に収監されていた。 ヴィーケネスが有罪宣告を受けた時、ヴィーケネスは懲役21年の判決ながら12年の刑期で仮釈放される可能性があった。しかし2002年に、12年の刑期が過ぎる前に、ノルウェー議会は、この仮釈放の可能性が発生する刑期を14年まで延長している。2006年6月、12年の刑期を終えた際、ノルウェーの刑事司法省はこれを理由にヴィーケネスの仮釈放を却下している。ヴィーケネスの弁護士であるジョン・クリスティアン・エーデン (John Cristian Eldenは、この基準の変更は、事後法に当たると訴えた。ノルウェー憲法97条において、遡及力を持つ法律の制定は禁止されている。ヴィーケネスは2008年6月にも仮釈放を却下されたが、短期間、家族と自宅で過ごすことが認められた。この時、ヴィーケネスの刑期は7年残っていた。しかしながら、2009年3月、ヴィーケネスの仮釈放が公表された。結局、懲役21年の内15年間の刑期となった。同年5月22日、ヴィーケネスは刑務所から出所し、保護観察となることが承認された。 5月29日、ヴィーケネスの出所の翌日、ヴォーレル(英語版)の教会が放火により焼失した。この時、ノルウェーのサタニズムの「専門家」は、これは「ノルウェーにおける教会への攻撃の新しい流れの始まり」となるかもしれないと述べた。
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