国連でのキャリア
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リーは、1945年にサンフランシスコで開催された国際会議へのノルウェー代表団に参加し、安全保障理事会規定の起草を主導した。1946年の第1回国連総会では、ノルウェー代表団長を務めた。1946年2月1日、リーは初代国連事務総長に選ばれた(1946年の国際連合事務総長の選出)。これは大国間の妥協の結果であり、わずかな期間を経たのみで最初の国連事務総長が選ばれた。 リーは国連本部を現在の場所にするために多くの献金をジョン・ロックフェラー2世から受け取り、そこに事務局を設立し、国際連合の旗を定めた。 リーは事務総長として、イスラエルとインドネシアの建国を支援して国連への加盟を認め、特にイスラエルには秘密裏に軍事・外交の極秘情報の提供も行っていた。1948年に旧イギリス委任統治領パレスチナの休戦協定を結んだ際には、調停官を補佐する50名の国連警護隊を派遣し、国連初の平和維持活動である国連休戦監視機構(UNTSO)を発足させた。イランではソ連軍の撤退、カシミール地方では戦闘の停戦に尽力した 。 朝鮮戦争中、韓国側に与して国連軍を送ったことでソ連の怒りを買った。ソ連は1950年以降国連での会合をボイコットし、彼はソ連に国連に戻るよう働きかけたが効果は薄く、最終的にソ連は国連に戻ったが、リーの関与は少なかった。 リーは、フランシスコ・フランコの独裁政権に反対し、1946年12月にスペインをファシストの国として排除する国連決議を採択させた。国共内戦で国民党(中華民国)政府が台湾に撤退した後は、加盟義務を完全に果たすことができる唯一の政府は中華人民共和国であると主張し、中華人民共和国の国連承認を求めた。 批判としては、ベルリン封鎖に対する対応のまずさ、さらには朝鮮戦争を迅速な終結に導けなかったことに対する点が挙げられるが、これはリーが国連事務局において「特定の勢力」の影響下にあったためとも言われる。また、尊大かつ頑固であるという面に関しても言及されることがある。 リーの任期が終わりに近づきつつあった1950年、アメリカはリー以外の候補を立てることなどまったく考えていなかったが、ソ連はこれを断固拒否した。朝鮮戦争下の対立のため安全保障理事会は完全なる袋小路に陥っていた。11月1日、国連総会はソ連の反対を押し切って、賛成46票、反対5票、棄権8票でリーの任期延長を決議した(1950年の国際連合事務総長の選出)。その後、ソ連はリーを事務総長と認めることを拒否し、事務総長宛とするべき連絡は全て「事務局宛」に送付した。また、「不誠実な」アメリカ人(国連組織の創設の際、必要な公務員の迅速な雇用を彼が強行したと考えた事実)を雇用したとジョセフ・マッカーシーによって非難されたため、リーは1952年11月10日に辞任した。
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国連でのキャリア
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「ブライアン・アークハート」の記事における「国連でのキャリア」の解説
戦後、アークハートは外交官となり、1945年の国際連合設立に携わった。国連準備委員会の執行委員会を補佐し、国連憲章に基づいて作られた組織の運営体制の確立に尽力した。その後、初代国連事務総長トリグブ・リーの補佐官になった。アークハートは、ニューヨーク市に国連本部を設立する際に、運営面や後方支援面での課題を解決するために尽力した。アークハートはあまりリーから好まれなかったため、その後のリーの在任中は閑職に就くことになった。しかし、1953年に第2代事務総長として就任したダグ・ハマーショルドは、主要顧問の一人にアークハートを任命した。1961年に事務総長在任のままハマーショルドが亡くなるまで、アークハートはハマーショルドに忠実に仕えた。ハマーショルドとは私的に親しくなることはなかったが、大いに賞賛した。 1956年の第二次中東戦争の際、アークハートは、国連が紛争解決と平和維持(英語版)に向けた初の大規模な取り組みをする上で重要な役割を果たした。ハマーショルドの主要顧問の中で軍役経験を持つのはアークハートだけであり、シナイ半島で交戦中のエジプト軍とイスラエル軍を引き離すために組織された初の国連平和維持軍である第一次国際連合緊急軍の組織化を率先して行った。国連平和維持軍と他の兵士との区別のために、国連は兵士に水色のベレー帽を被らせようとした。しかし、全ての兵士の分を調達するには6週間もかかることが判明したため、アークハートは水色のヘルメットを被ることを提案した。これであれば、各自が持っているヘルメットに色を塗るだけで済むため、1日で完了した。 1960年代初頭、アークハートは友人のラルフ・バンチの後を継いで、在コンゴ国連大使を務めた。アークハートは、戦争で荒廃したこの国を安定させようと努力したが、それは紛争中の無数の派閥による混乱により妨げられた。ある時、アークハートはカタンガ軍により誘拐されて暴行を受け、死の危機に迫られた。アークハートは、自分を殺したならば、カタンガ軍が恐れている国連のグルカ兵が報復に来るだろうと説得することで、生き延びることができた。 アークハートは、1972年から1986年に退任するまで、国連の特別政治問題担当事務次長を務めた。事務次長としてのアークハートの主な任務は、中東やキプロスでの平和維持軍の指揮と、これらの地域での交渉だった。また、ナミビア和平交渉、カシミールやレバノンでの交渉、原子力の平和利用などにも貢献した。
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国連でのキャリア
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「アシャ=ローズ・ミギロ」の記事における「国連でのキャリア」の解説
2007年1月5日、ミギロは国連事務総長に就任した潘基文により国連副事務総長に任命された。潘事務総長は、「彼女は長年にわたり発展途上国のために尽力してきた尊敬すべきリーダーである。多様な分野での卓越した奉仕を通じて、彼女は社会経済や開発問題における幅広い経験と専門知識を備えた卓越した管理能力を発揮してきた」と述べた。『ニューヨーク・タイムズ』紙によると、これにより、副事務総長に途上国の女性を選ぶという潘の公約が果たされた。国連ニュースセンターによると、ミギロと潘は両者が外相だった頃に一緒に仕事をしたことがあるという。ミギロは2007年2月1日に正式に副事務総長に任命され、就任した。 副事務総長在任中、デンマークのアナス・フォー・ラスムセン首相が設置した「アフリカとの効果的な開発協力に関する委員会」の委員となり、2008年4月から10月にかけて会議を開催した。2009年9月にローマを訪問し、イタリアのフランコ・フラッティーニ外相やローマ教皇ベネディクト16世と女性に対する暴力について会談した。国連代表は、女性器切除とジェノサイドを止めることを目的としたイニシアチブの最終準備をしていると報じられていた。 ミギロは2012年6月に副事務総長を退任した。
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