国が支援する植民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 15:09 UTC 版)
「ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化」の記事における「国が支援する植民」の解説
「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」および「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」を参照 大西洋を越えてヨーロッパ人によるアメリカ大陸での初期活動は、スペイン王国による支援を受けたクリストファー・コロンブスによって始まったが、その元々の目的は西回りでインドや中国、いわゆるインディーズに辿り着く航路を見付けることであった。これに続いたジョン・カボットはニューファンドランドを発見したが、彼はイングランド王国の支援を受けていた。ペドロ・アルヴァレス・カブラルはポルトガル王国のためにブラジルを発見した。ポルトガル王国のために1497年から1513年にかけて航海したアメリゴ・ヴェスプッチは、コロンブスが発見したのは新しい大陸であることを証明した。地図学者達はヴェスプッチのファーストネームをラテン語読みして、2つの大陸をアメリカと名付けた。他にも国が支援する探検家がいた。フランスによるジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ、ポルトガルによるジュアン・ヴァス・コルテ=レアル、フランスによるサミュエル・ド・シャンプラン等であった。1513年、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアはパナマ地峡を抜けて新世界の西海岸、太平洋に到達した。その歴史的意味合いにおいて、バルボアは太平洋とそれに隣接する陸地は全てスペイン王国に属すと主張した。1517年、キューバから別のスペイン遠征隊が奴隷にする者を求めて、中央アメリカを訪れ、メキシコのユカタン半島に上陸した。 これらの探検に続いて、特にスペインの場合は「征服」という行動が起こった。スペインはイベリア半島から回教徒を追い出すための「レコンキスタ」を完成させたところであり、最初にアメリカを植民地化するにあたって、元アル・アンダルスを治めるために採った行動を、新世界の領土にも適用した。コロンブスによる発見から10年後、イスパニョーラ島(ハイチとドミニカ共和国がある島)の管理は「レコンキスタ」の間に作られたアルカンタラの司令官であるニコラス・デ・オヴァンドーに委ねられた。イベリア半島の場合と同様に、イスパニョーラ島の住人は新しい領主を与えられ、ローマ・カトリック教会の聖職者が管理の実務を扱った。「エンコミエンダ制」という仕組みで土地を特許されたヨーロッパの開拓者が徐々に入るようになった。 比較的少ない数のコンキスタドールが、疫病と先住民族の分裂に助けられて広大な領土を征服した。メキシコのアステカ帝国は、1519年から1521年の間に、エルナン・コルテスによって征服され、インカ帝国は1532年から1535年の間にフランシスコ・ピサロによって征服された。 コロンブス航海の後1世紀半で、アメリカ大陸の先住民族人口は80%減じたと見積もられている(1492年の5千万人から1650年の8百万人)。これは旧世界からの疫病の流行だけでなく、何度かの虐殺と強制労働によるものであった。インカ帝国では「ミタ」(公共事業に対する賦役)が再設定され、アステカ帝国の後には「テキトル」が定められた。コンキスタドールは徐々にアメリカ先住民族特権階級との異人種間結婚によってできた新しい民の寡頭政治に置き換えていった。1532年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世はメキシコに副王としてアントニオ・デ・メンドーサを任命して、コルテスの独立志向の動きを抑えたので、コルテスは最終的には1540年にスペインへ戻った。2年後、カール5世は1512年のブルゴス法に換えて新法を定め、奴隷制と賦役を禁じたが、アメリカの土地全ては自分のものであり、先住民は全て自分の臣民であるとも主張していた。 1493年5月、ローマ教皇アレクサンデル6世は、勅書「インター・カエテラ」を発行してスペイン王国に対する新しい土地の所有を認め、その見返りに土地の人々の福音伝道を要求した。コロンブスの2回目の航海には、ベネデクト派の宣教師が同行し他にも12名の聖職者が付いていった。キリスト教徒の間では奴隷制が禁じられており、非キリスト教徒の戦争捕虜あるいは既に奴隷として売られていた者にのみ隷従が課せられたが、キリスト教化に関する議論は16世紀の間特に重要なことであった。1537年、教皇の勅書「スブリミス・デウス」で先住民族が魂を持っていることを認識し、その奴隷化を禁じたが、議論を終わりにはさせなかった。それにも関わらず、反乱を起こして捕まえられた先住民は奴隷化できると主張する者もいた。後にバリャドリッド論争が起こった。ドミニコ会の聖職者バルトロメ・デ・ラス・カサスは、先住民が他の人類と同じく魂で愛されているとし、一方、アリストテレス学の権威として知られた神学者のフアン・ヒネス・デ・セプルベダは反論してその奴隷制を正当化した。キリスト教化の過程は初め暴力的なものであった。1524年に最初のフランシスコ会修道士がメキシコに着いたとき、異教の神に捧げられている場所を焼き払い、現地の民の多くから疎んじられた。1530年代、先住民もキリスト教の教えを現地の慣習に融け込ませ始め、古い礼拝場所に新しい教会を建て、旧世界のキリスト教と土着の信仰とを融合していった。スペインのローマ・カトリック教会は先住民の労働と協力を必要としていたので、ケチュア語、ナワトル語、グアラニー語など先住民の言葉で福音を説き、場合によって文字を教えた。先住民族のための最初の学校は1523年に修道士のペドロ・デ・ガンテによって創設された。 コンキスタドールはその軍隊に報いるためにしばしば兵士や士官にインディアンの町を割り当てた。ある場所では黒人奴隷が先住民族の労働の肩代わりをするために導入された。顕著な例は西インド諸島であり、多くの島で先住民が消滅状態に近くなった。 この頃、ポルトガルは当初の計画であった交易拠点を設けるという案からブラジルの広範な植民地化に切り替えつつあった。そのプランテーションを動かすために数百万人の奴隷を輸入した。 ポルトガルとスペインの政府は、これら植民地を支配してそこから税金を集めることに加え、少なくとも発見した財宝の20%(カーサ・デ・コントラタション(植民地政府)によって集められる「クイント・レアル」(税法))は回収しようと期待していた。
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